正解のない時代を生きる──リンダ・グラットンの問いと、私たちの構えと覚悟

「男女共同育児を促すパートナーシップ制度の進展」。 一見、まっとうで、未来志向の響きを持つこの言葉に、私はふと、違和感を覚えていた。 それは制度そのものへの否定ではなく、むしろ制度が“新しい正しさ”として流通し始めるときに、人々が再び型にはめられてしまうのではないかという懸念だった。

この違和感の源泉は、今朝(明け方)に出会ったある文章にあった。ある大学の学生から届いた「退学」の決意表明──その覚悟は、社会的な合理性や損得の計算から解き放たれ、自らのまなざしで世界を選び取ろうとする強い意志に満ちていた。

リンダ・グラットンの言葉に導かれて始まったこの一連の思索は、結果として「正解なき世界における生き方」というテーマへと収束していった。リンダ氏は、人生100年時代のキャリア形成において「マルチステージの人生」「無形資産の育成」「構えの柔軟性」の重要性を説いたが、そこには制度やモデルに従うことではなく、自ら選び、自ら決めるという覚悟が要請されている。

そうした意味で、「育児」もまた、制度によって効率化・合理化されるべき対象ではない。効率や分担をめぐる議論の先にあるべきなのは、「意味のないように見える時間」に宿る豊かさや、人と人のあいだに立ち現れる感情の質である。

私は以前、こんな言葉を妻から聞いた。 「大人の足なら8分。でも子どもと一緒なら40分かかる。」 その言葉が指し示すのは、まさに「非効率」であることの意味だ。

社会は、高度経済成長期を通して「正解を出せる人格」を育む構造を築き上げてきた。教育制度、企業社会、キャリア設計──すべてが「外部にある正解」に近づくための手段だった。そして、それはある時代においては確かに機能した。しかし、いま私たちが直面しているのは、正解の崩壊である。

正解がないということは、選択の自由があるということ。 だが同時にそれは、自らが選び取る責任と構え、そして覚悟を問われるということでもある。

その意味で、人生やキャリアはもはや「一般解」ではなく、「特別解」として捉え直されなければならない。すべての出会い、すべての選択が一期一会であり、誰かの模倣ではなく、自らの問いに対する応答である。

秋田の森で一本の木を切ったあの日、私はその行為が「建築の一部」ではなく、「暮らしとの契約」になるのだということを体感した。森に生きた木は、職人の手を通じて、約1年後、我が家に柱やテーブルとして戻ってくる。 何になるかはまだ決まっていない。だが、だからこそ、その「余白」に価値がある。

正解ではなく、構え。 合理性ではなく、意味。

リンダ・グラットンが投げかけた問いに、私はこう応じたい。 制度は選択肢を増やすためにある。しかし、選ぶことは、ただの自由ではない。構えをもって、そして覚悟をもって、応答することなのだと。

そして、答えは常に「あなたの特別解」の中にある。

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