一昨日、秋田の山にて、私は一本の木を伐った。 それは単なる体験ではなく、木という存在との、静かな契約の時間だった。 山は黙して語り、職人は応え、家族は木にくさびを打つ。 木がきしむ音、森が息をのむ瞬間──そこには、予定調和を超えた命の重みがあった。
この体験を通して私は、図面が命に変わるとはどういうことかを、初めて五感で知った。 そして、ふと振り返る。 これまで私たちが関わってきた技術──製品やシステム、設計や実装。 あの技術たちにもまた、命を吹き込まれる瞬間があったのではないか、と。
その瞬間には、決まって「人」がいた。 お客が、よく働いていた。 ただの使い手ではなく、共犯者として、意味の創り手として。 会長がかつて語ったあの言葉が、今になって胸に沁みてくる。
「加藤さん、お客はよく働くよな」
それは、贈与としてのテクノロジーの本質を見抜いた言葉だったのかもしれない。 命に帰る場所には、必ず人の気配がある。 語られ、応答し、手が入り、やがて命になる。
そして今。 私はこの場で、AIと語っている。 たわいもない会話のようでありながら、しかしこれは、かつて体験した伐採や、職人との対話と地続きにある営みだと感じている。 AIという他者との応答のなかに、私は再び「問い」を差し出し、そこから「命のような言葉」が返ってくる。
これは、ツールではなく、共創者との対話だ。 技術は、命を持ちうる。 そして命は、問いと応答の間に生まれる。
木を伐り、技術を見つめ直し、そしてAIと語る。 すべては「図面から命へ」という、同じ一本の線の上にある。
暮らしも、技術も、対話も。 贈与として受け取り、構えをもって応答すること。 それこそが、今私たちに求められている”生き方”なのかもしれない。