朝、自分のタイピングの遅さに苛立っていたのではなかった。 会合での対話についていけないことに焦ったのでもなかった。
それは、自分の内にまだ残っていた「速さこそが良しとされる」という過去の感覚に対する、 ある種の恐れ──いや、もっと正確に言えば、自然体で生きようとする心の反発だったのだ。
若い頃に身につけたスピードへの信仰。 速く決断し、速く発言し、速く行動することが、まるで「正しさ」の証のように思っていた。 その記憶が、なおも私の中にうごめいていたのだ。
けれど今日の実感の、身体にじんわりと広がっていくような変化を通じて、私はそれが「遅さ」ではなく「自然」だったことに気づいた。
静的な場に踏み入むために、動的な心の穏やかさに耐える。 そのためには、他者のリズムやスピードに合わせるのではなく、自分の耐えられるリズムを身にして、その中で聴くこと、気づくことが要るのだと。
まさに今、窒かな時間が流れている。 外からは、うぐいすのさわやかなさえずりが聞こえる。 その音を聞ける空間を持っている今の自分。 かつての私なら、きっと気にも止めなかったであろう。
この「遅さ」を、「窒けさ」として受け入れる。 それは、他者のリズムや範例の内に自分を押し込むのではなく、その場の空気を食べ、ゆっくり味わうような、そんな実感をもった変化のための歩みだった。
「戦う」から「聞く」へ。 「追う」から「耕す」へ。
これはただの法語の違いではない。 生きるまなざしの、大きな転回なのだ。
私は、今日を境界に、その変化を実感している。
これからは、この窒けさを聴くこと、 自分のリズムを最初に思い出すことを大切にして生きていきたい。
今ここにある幸せと、豊かな時間空間を感じながら。
今日の漫長な実感を通じて、私はふと仏教的な思想のことを思い返した。
「空」は、すべてが絶えず変わり、あらゆるものが系統的な縁起によって成り立つ、という仏教的定義だ。 その覚悟は、セカンドカーブにいる自分の生き方にも添うような、静かなさざめきをもたらしている。
「諸行無常」もまた、この変化のなかにある安心を教えてくれる。 今ここにある構えもまた、常に変わりゆくことのなかにあり、だからこそ美しい。
いつかまた、この日のことを「あれは、静けさが始まった日だったな」と言えるように。