問いを継ぐロボット──WABOTの亡霊を越えて

仲間のロボット系スタートアップの社長が、先日Facebookに印象的な投稿をしていた。
ロンドンで開催されたHumanoids Summitに参加し、世界のヒューマノイド開発の現在地に触れてきたというレポートだった。

中国は圧倒的なスピードでハードウェアを量産し、
欧米はAIとサービス、そして規格という“ルール”で主導権を握ろうとしている。
フィリピンの遠隔操作によって模倣学習のデータを集める手法まで紹介され、
ある意味で、すでにヒューマノイド開発のグローバル・エコシステムは静かに構築されつつある。

その中で、日本の存在感は希薄だったという。

「WABOT-1とWABOT-2を知っている。なぜ日本は今ヒューマノイドを作っていないんだ?」

謎のアラブ系Youtuberからの問いかけに、彼は答えたという。
「いや、日本はこれから開発を加速させるんだ」と。

だが、私はそこで立ち止まってしまった。
それは「火を絶やさない」という精神論ではないか。
それは本当に、次の問いにつながっているのか──。


世界はすでに動いている

いま、ヒューマノイド開発をめぐる世界は、分業というかたちで秩序を生み出している。

中国は、安価で高性能なアクチュエータと精密部品を、スピードと規模で供給する。
欧米は、AIによる判断系、モーションコントロール、安全性確保のアーキテクチャ、そして標準化へと向かう設計思想で覇権を狙う。
東南アジアは、遠隔操作というかたちで、ヒューマノイドの“幼年期”を支える。人間の動きを反復しながら学ばせるという、最初の道筋をつける存在として。

それらが静かに結び合い、ヒューマノイドのグローバルサプライチェーンと知識循環の構造が立ち上がりつつある

では、日本はそこに、どう位置づけられているのか?

答えは、空白である。

かつてのWABOTは「人型ロボット」の未来を象徴したが、いま、その問いは再び未定義のまま放置されている


火を継ぐのではなく、問いを継ぐ

「火を絶やすな」という言葉には、どこか懐かしさが漂う。
だが、いま必要なのは、かつての火を守ることではなく、いま何を問うべきかを更新することではないだろうか。

ヒューマノイドを再び構想するとは、
単なる工学技術の復活ではなく、新しい倫理と社会性の問いを立てる構えである。

人に似せるという技術は、もはや驚きでも憧れでもない。
問われているのは、その存在が何を支えるのかということだ。

たとえば、日本の介護現場におけるロボット導入、
農業や林業の孤立した現場での自律的パートナー、
災害支援における状況判断と行動の柔軟性。
そこでは、人の“弱さ”や“迷い”と共にいる構えが問われている。

日本が継ぐべきは、「なぜ今、ロボットなのか?」という問いそのものである。
そして、その問いを生きる社会実装の空間こそ、日本にはまだ豊かに残されている。


共鳴としてのロボット、構えとしてのヒューマノイド

世界が技術を「支配と効率」のために用いようとする中で、
日本は技術を「寄り添いと関係性」のために用いてきた歴史がある。

AIBOもロボホンも、そして療養施設の端で静かに鳴くパロも──
そこにあるのは、人の孤独に応答する技術である。

ヒューマノイドがただ人に似ているのではなく、人の“揺らぎ”に寄り添う構えを持てるのか
それは、ジャズセッションのような共鳴の技術かもしれない。

共通のスケール(身体構造、ルール、社会的制約)があるなかで、
個々の動きや声や表情に応じて、柔らかく即興を生み出す存在。
そのとき、ロボットは「人の代替物」ではなく、
共に“意味を編む存在”へと変わっていく


技術ではなく、問いが文化をつくる

日本が今後、ヒューマノイドで再び世界に関わるとしたら、
それは「技術力」ではなく、「問いの構え」を提示することにあるのかもしれない。

かつてのWABOTが技術の象徴だったなら、
次に生まれるべき日本のロボットは、問いの象徴であるべきだ。

「人と共に生きるとは、どういうことか?」
「存在が似ていることで、人は本当に安心するのか?」
「人の不完全さに応答する技術とは、何か?」

そのような問いが編み出される空間。
それを私は、日本の中に、まだ見ていたいと思っている。


結びにかえて──

ヒューマノイドという言葉が、再び脚光を浴びている。
だが、その輪の中心に日本がいないことを、私はむしろ機会だと感じている。

新しい輪郭を持った問いを描くために、
日本は一度、過去の火ではなく、未来の静かな種火を拾いに行くべきなのだ。

それはノスタルジーではなく、
文化としての技術を再構成する挑戦に他ならない。


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