豊かさと寂しさの交錯──手渡された米と、語られない沈黙のあいだで

今日、手渡された米袋のあたたかさが、胸の奥に静かに沈んでいく。 それは、ただの食材ではなかった。季節のめぐりと、長年続いてきた関係の厚み、そして何より「生き方の密度」を抱きとめるような重みだった。

26年の関係を越えて、いま、互いの時間がふたたび交わり始めている。 流通を介さず、制度を越え、人から人へと手渡されるこのやりとりは、単なる取引ではない。 それは「誰と、どこで、どう生きるか」を静かに問い直す行為であり、私にとって、セカンドカーブの入口で出会ったかけがえのない実感だった。

けれどその直後、もうひとつの関係が胸をよぎった。 かつて大学時代を共に過ごし、日立での社会人としてのスタートを導いてくれた友人の姿。 彼はいま、北海道でラピダスの現場に立っている。62歳。単身赴任。定年までの数年間を、まるで戦場のような半導体の最前線で過ごすという。

彼は、自分の選んだ道をまっとうしようとしているのだと思う。 だが、その姿に私は、言葉にならない寂しさを感じてしまう。

私たちは、かつて同じ場所にいた。 だが、いまは構えが違ってしまった。 思想さえも、時間の中で静かにずれていったように思える。

語れない。 問いを交わす関係では、もはやなくなってしまったのかもしれない。

ラピダスという場が悪いのではない。 だが、それがまるで「過去の地図を再びなぞる試み」に見えてしまうとき、 その中にいる彼の姿を、私はまっすぐに見つめることができない。

敗北を感じているのか、それとも使命感のもとに歩んでいるのか。 私には分からない。 だが少なくとも、そこに「問いを持ち続ける構え」は感じ取れない。 それが、私にこの静かな寂しさをもたらしているのだと思う。

今日受け取った米袋の温もりと、 思い出した彼の背中の冷たさ。

両者は、まるで反対の風景だ。 けれど、どちらも私にとって「過去からの贈り物」であり、 そして「これからの構え」を形づくる、大切な断片なのだ。

豊かさとは、語れる関係だけではなく、 語れなくなった沈黙すらも引き受ける感性を含んでいるのかもしれない。

私はその両方を携えて、 問いを抱きながら、次のカーブへと静かに歩み出している。

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