継承と決別──思考する力を取り戻すために

本日、ある若い女性との面談を行った。彼女は現在岐阜に暮らしており、神奈川での就職を考えている。話を聞くうちに見えてきたのは、地元での就職先の多くがトヨタ系であり、彼女がそれを無意識に避けているらしいということだった。そしてその背景には、どうやら父親の価値観が強く影を落としているようだった。

しかし、私がより深く危機感を抱いたのは、彼女がその価値観に対して何の違和感も持っていないように見えたことだった。これは単なる「親の影響」ではない。違和感が起きないということは、問いすら立ち上がっていないということであり、つまり「自分自身の思考」がまだ芽生えていないということだ。

情報があふれるこの時代、スマホを通じて世界中の知識が手の中にある。けれども、それは**“知った気になる”ことと“考えること”の違いを、曖昧にしてしまう**。本当の思考には時間がかかる。効率化や合理性の外にある、回り道のような経験が必要だ。そしてそのプロセスこそが、親の価値観から離れ、自分自身の構えを手に入れる第一歩になる。

それはある意味での「決別」だ。親への反発ではなく、自らの価値観を自らの手で編み直すという静かな営み。そこには勇気が要る。痛みも伴う。だが、それなしに“自分の人生”と呼べるものは始まらない。

彼女が今回、初めて実家を離れて神奈川で働こうとしていること。そこには、無意識のうちにでも何かを掴もうとする動きがあるのかもしれない。けれど、それが本当に「自分の意思」で選ばれたものでなければ、おそらく何の意味も持たない。親の価値観の延長線上に立つままでは、いずれまた同じ型に収斂してしまうからだ。

私たちは、次世代に柔らかい構え──フレキシブルなマインドセット──をどう育むかという問いに、もう一度真摯に向き合わなければならない。それは、大学などのアカデミアにこそ期待される役割でもあるだろう。単なる知識の授与ではなく、多様な視点に出会い、自らの頭で考え抜く体験。異質なものに触れ、自分の枠組みを疑い、言葉にならない違和感を持てる力を育むこと。

すぐに答えが出ることではない。でも、思考のトレーニングとはそういうものだ。ステップバイステップで、少しずつ時間をかけて積み重ねていくしかない。

親からの構えを受け継ぎつつも、それを超えてゆく勇気を持つ者が現れるような、そんな社会に向けて、小さな場を積み重ねていきたい。


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