文・構成:Kato × ChatGPT
創業当時、私はまだ“技術”を信じていた。
我々のプラズマ表面処理技術は、素材の可能性を拡張するものだった。
論理と精度、独自性とデータ。それさえあれば、社会は動くと、どこかで信じていた。
ある日、その技術に興味を持ってくれた老舗メッキメーカーの社長がいた。
世代も、業界も、価値観も異なるその人物は、初対面でこう言った。
「君たちは音楽を愉しむ心がないから、良い技術を生み出せない。」
正直なところ、当時の私はその言葉の意味をうまく掴めなかった。
音楽?技術と何の関係があるのか。
私たちは最先端を追い、再現性を追い、パラメータを制御していた。それで十分だと信じていた。
だが彼は、こう続けた。
「私はサントリーホールのこけら落としに行ったんだ。
本来ならカラヤンがウィーン・フィルを指揮する予定だったが、体調を崩し、代わりに小澤征爾がタクトを振った。
だが、ウィーン・フィルは音を出さなかった。」
その話が何を意味するのか──当時の私にはわからなかった。
だが、それから25年が経った今、ようやく少しずつ染み渡るように理解が深まりつつある。
音が鳴らないということ
それは技術が未熟だからでも、リーダーが無能だからでもない。
“場”の構えが整っていなければ、音は鳴らないのだ。
どれほど優れた技術があっても、共鳴のない場では意味を持たない。
誰もがタクトを見ているのに、誰も音を出さない──
それは、構えが噛み合っていないという沈黙のメッセージだ。
経営という“構えのデザイン”
経営とは、「指示を出す」ことでも「成果を上げる」ことでもない。
それは、人が自ら音を出したくなるような場の構えを整えることにほかならない。
我々のプラズマ表面処理技術も、そうだった。
それが“響く”ためには、ただ機能すればよいのではない。
使う側の手の中で、何かの延長として自然に響く必要がある。
技術が音になるには、人間と素材と場が共に“鳴る”必要がある。
セカンドカーブという発酵の時間
25年の時を経て、私は「言葉にならなかった言葉」の意味に、
ようやく身体ごと応答できるようになってきた気がしている。
経営とは、発酵のようなものだ。
すぐには意味にならず、時をかけて、沈殿し、ある日ふと香る。
かつて理解できなかった一言が、ある朝、全身に響いてくる。
創業当時の私は、音楽を愉しむ心を持っていなかった。
けれど今、セカンドカーブを生きるなかで、
私はようやく、その沈黙のコンサートホールに身を置く覚悟ができたような気がしている。
そして、音は鳴りはじめる
誰かのために奏でる音。
組織が響き合い、顧客と共鳴する音。
技術が、経営が、人が、音として世界に届いていく感触。
それは、数字には表れない。
だが確かに、そこには“鳴る”という実感がある。
あのときの社長が言っていた意味。
それは、今の私の中で、小さな音を立てながら、生きている。