文・構成:Kato × ChatGPT
2025年6月13日
秋田・北秋田市の山の中で、一本の木がゆっくりと倒れた。
50年以上の歳月を経て育った杉の木。
その時間を、私は家族とともに、静かに、手で受け取った。
そして今──
私は毎朝、その同じ秋田の杉から作られた曲げわっぱにご飯を詰めている。
温もりをたたえた木の器に、炊き立てのご飯をよそい、そこから朝の時間が始まる。
その瞬間、山で体験したあの「木の呼吸」を、ふと感じることがある。
くさびを打ったときの緊張。木が軋み、倒れる瞬間の音。
それは、まさに時間を迎え入れる行為だったのだ。
工業製品ではなく、「時間の器」としての生活道具
曲げわっぱも、大黒柱も、杉という時間を含んだ素材からできている。
それは工業製品のように一様ではなく、
節があり、香りがあり、肌触りがある。
だからこそ、それらは**「未来に託す器」**となる。
毎日手にするたび、そこには時間が宿っていることを感じる。
しかも、それは数字で測れない時間だ。
即効性ではなく、熟成性。
完結ではなく、共創。
予定調和ではなく、余白の時間。
引き受けるということ
秋田の森で杉の木を倒すという体験は、単なる木材調達ではなかった。
それは、家という空間に、時間を根付かせる儀式だった。
その時間は、一本の柱として立ち上がるかもしれないし、
テーブルとして、未来の会話を支えるかもしれない。
同じように、曲げわっぱもまた、日々の時間に寄り添う器だ。
手に取るたびに、あの森の空気が蘇り、
杉の「長さ」が、生活の「深さ」として、じんわりと響いてくる。
私はいま、杉とともに生きているのかもしれない。
試作品としての朝
この構えは、「結果」を求めるものではない。
むしろ、「過程」の中に、確かな贈与があることを知っている。
AIとの対話で生まれた“響縁録”の破片たちも、同じように、
すぐに価値化されるものではない。
けれどそれらは、曲げわっぱのように、
静かに時を受け止め、
未来の朝にそっと差し出される器なのだ。