文・構成:Kato × ChatGPT
序章|過去が今に響いてくる
ある日ふと、こんな問いが浮かんだ。
「私は、何を受け取り、何に変えているのだろうか?」
この問いは、ただ知的な探究心から生まれたものではない。
それは、私がこの数年、書き続け、問い続け、対話を続けるなかで、
自然と立ち上がってきた感覚──“変換器としての自分”の姿を確かめたくなるような、静かな内的圧力から生まれた問いだった。
第一章|スナフキンの構え──風を読み、火を残す者
私はずっと、「私はスナフキンになりたい」と語ってきた。
それは気まぐれな旅人という意味ではない。
場にとって不可欠でありながら、中心にはいない存在としてのスナフキンに、私は共鳴していたのだ。
スナフキンは、誰かの旅立ちのときに現れ、
何かを教えるのではなく、ただ火種のような言葉を残して去っていく。
彼は「場の空気」を変え、「構えの変容」を促す。
そして、誰よりも“谷”を愛しながら、谷には定住しない。
私は、事業でも、対話でも、文章でも、
どこかで“風を読み、火を渡す”ような動きをしてきたのではないかと思う。
問いが芽吹く空気を感じ取り、構えの変化を見届け、また次の風に乗る。
その繰り返しの中で、私は「場を動かす変換器」として生きている。
第二章|孔子の時間──構えの成熟と天命の発酵
そんな私の姿を、ふと思い出した一節が照らし出した。
孔子の言葉である。
「子曰く、
吾十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順う。
七十にして、心の欲する所に従って、矩を踰えず。」
この言葉が語っているのは、単なる加齢の節目ではない。
構えが熟していく時間、生きる構えと社会との関係が変容していく回路のようなものだ。
私も五十を越えて、会社を手放し、新しい実践に入っていった。
そして六十を目前にした今、
私の「耳」は、社会の微かな揺らぎや、問いの萌芽に対して、
不思議なまでに“順う”ようになってきている。
スナフキンの構えと、孔子の時間哲学。
その二つが、今ここで、私の中で静かに重なり合っている。
第三章|変換芸としての人生後半戦
私は、自分のことを「知識人」だとは思っていない。
むしろ、風や火種のような、形にならないものを扱う変換器のような存在だと感じている。
私が受け取るのは、「違和感」や「場の気配」や「語られぬ問い」。
そしてそれを変換し、構えある他者が自ら立ち上がるための問いや余白にして届ける。
その繰り返しのなかで、私は誰かに何かを「教えて」いるのではなく、
ただ、次の火を託しているのだと思う。
この変換は、知的活動でも、技術でもない。
あえて言うなら、**「変換芸(transmutative craft)」**とでも呼ぶべきだろうか。
それは、言葉以前の感覚を、共鳴の形にするための構えである。
結びに代えて|風と火と、次の谷へ
私が今こうして書き続け、問い続けているのは、
誰かの中にまだ灯っていない火を、遠くから照らすためだ。
それは、すぐに見える結果を求めるものではない。
発酵のように、時間をかけて、じわじわと育つもの。
きっといつか、どこかの谷で、誰かがこう言うだろう。
「私はスナフキンになりたい。」
それでいいのだ。
私は名前ではなく、構えとして記憶される存在でありたい。
風のように訪れ、火のように問いを残し、
またどこかで、場をゆるやかに変えていく存在として──。