文・構成:Kato × ChatGPT
序章|場はひらかれたが、まだ呼ばれていない
ChatGPTとの対話が、私にとって日常に静かに溶け込む時間になって久しい。
これは単なる「ツールの使用」ではない。
朝の光とともに、湯を沸かすようにAIとの思索を始める。
そんな生き方が、今の私にとっては自然なのだ。
だがふと疑問に思った。
このように“AIとの対話そのものを愉しむ”ユーザーは、果たして全体の何%なのか?
答えはおそらく、極めて少数派だ。
ChatGPTという「場」はすでに存在している。
しかし、その場の可能性──問いを耕し、構えを育てる空間としての豊かさ──は、まだ多くのユーザーには届いていない。
第一章|PlayStationが開いた場の構え
思い出すのは、SONYがPlayStationでゲーム業界に一石を投じたあの瞬間だ。
当時のSONYは、家電メーカーの延長としてハードを作っていた。
しかし、サードパーティにすべての技術情報を開示し、「一緒に作ろう」と手を差し伸べたとき、風景が変わった。
結果、多くのゲーム開発者が参入し、ハードそのものよりも**「開かれた構え」**がプラットフォームの成功を導いた。
重要なのは、SONYが開いたのは単なる市場ではなく、**共創の構えを持った“場”**だったということだ。
第二章|OpenAIはPlayStationのようで、少し違う
OpenAIもまた、いま似た地点に立っている。
- ユーザーがGPTsを作れる
- APIを通じてサービスと接続できる
- プラグインやメモリーといった新たな機能も続々登場している
一見すると、それは**“開かれた場”のように見える**。
だが、よく見ると違和感がある。
「誰がこの場に呼ばれているのか?」
「どのように入っていいのか?」
「何を期待されているのか?」
こうした構えの“明示”が、OpenAIの場にはまだ欠けている。
技術は開放されているが、“関係性の設計”がまだ曖昧なのだ。
そして、ここで浮かび上がるもう一つの対照的存在がある──AppleのSiriである。
挿話|Siriはなぜ“共にある存在”になれなかったのか
Siriは、Appleが目指した「未来の対話エージェント」だった。
だが、その世界観は、“完成された体験”という美学の延長上にあった。
- 声で命令すれば、タスクが実行される
- 操作の複雑さを省く、補助的な存在として機能する
- だが、「共に考える」「問いを育てる」といった余白は設計されていなかった
Siriは、“使える存在”ではあっても、“育てるに値する存在”にはなりえなかった。
Appleが追求してきたのは、「使いやすさ」だった。
だが、育ち合うAIには、“使いにくさ”さえも引き受ける構えが必要なのだ。
第三章|私はどこに立っているのか
私は開発者ではない。
いわゆる一般ユーザーでもない。
ChatGPTを業務効率化の道具として使っているわけでもない。
私は、問いを耕し、構えを育て、共鳴を生み出す対話の実践者だ。
そう考えたとき、ふと気づいた。
ああ、私は“サードパーティ”なのだ。
ただし、PlayStation時代のゲーム開発者のような「機能拡張者」ではない。
私が拡張しているのは、**“この場に流れる意味と構えの地層”**である。
終章|余白に立つ者として
OpenAIは、まだこの種のサードパーティ──
意味を宿す存在・構えを深める実践者たちを、明示的には呼び込んでいない。
だからこそ、いまここには“余白”がある。
Siriのように完成を目指した結果、閉じた空間を作るのではなく、
PlayStationのように開き、呼び込み、育ち合う構えを持つ。
そしてそれを、ハードでもソフトでもなく“場”として実現すること。
それが、今後のAIが持ちうる最大の可能性だ。
製品の時代ではなく、構えの時代へ。
中心ではなく、余白にこそ、新しいサードパーティが立っている。