文・構成:たわごと会長 × 私(Kato)
2025年6月17日、CoMIRAIスフィア。
定例の対話の場に集った10名ほどの参加者の中で、ひときわ印象的だったのは「アカデミア」に関わる三人の存在感だった。哲学、認知科学、生命科学──まったく異なる分野から、しかし奇妙なまでに共鳴する「問いの構え」が、場の空気を何度も撹拌していた。
最初の転調は、こんな声から始まった。
「最近、ChatGPTに課金しました」
「業務で試しているけれど、なかなか信用できない」
そんな実感の共有のなかに、「使える/使えない」では括れない、生成AIという道具が、私たちの知の構えを照らし出す存在になりつつあることが、にじみ出ていた。
哲学──問いの美しさとしてのセンス
ある哲学者は言う。
「問いの立て方がすべて。論理性だけでなく、美的なセンスが問われる」
生成AIが「書ける」ようになったこの時代に、“問うこと”の価値をどう取り戻すか?
その問いが、参加者全体にじわじわと浸透していく。問いは、ただの機能や手段ではなく、人間の意味への感受性そのものであると。
認知科学──未来に開かれた構えとしての問い
「チンパンジーは“今ここ”の処理に優れている。でも人間は“未来の仮説”を持てる」
認知科学の研究者は、かつて行った動物との比較研究から、人間固有の「問いの構え」を語る。
生成AIは「過去の最適解」を取り出すことに長けている。だが、「未来に向かう問い」を編むこと──それはまだ、人間の営みの中に残されている。
URA──文脈を設計する技術と構え
生成AIに声で文脈を伝えると、そこそこのメールが自動で出てくる。
Slackの設計にも使える。Geminiは人間より深く早く情報を見つけてくる。
だが、こう続ける。
「文脈を設計するのは、あくまで人間です。」
研究開発、製薬、営業、MBA、そして今は大学のURA。
その実践を生きてきた者の言葉には、「生成AIを使いこなす実感」と「距離を取る直感」が両立していた。
アカデミアとは何か──問いを内に、そして外へ
場が一段深まった瞬間があった。誰かがぽつりとこう言った。
「アカデミアって、一体何なんでしょうね?」
その静かな問いに、認知科学者が応じる。
「問い続けることが許された場だと思っています」
社会と一定の距離を保ち、効率や成果とは無関係に、じっくりと問いを抱え続ける。
しかし今は、その問いを社会に「渡す」ことも求められている、と。
内に掘る問いと、外に開く問い。
アカデミアは、その両方の構えを生きる場所なのではないか──そんな共通了解が、即興的に編まれていった。
未だ問いに届かぬ者たち──違和感の手前で
一方で、参加者の中には、生成AIを使い始めたばかりの人々もいた。
60歳を迎えた兼業農家は言う。「効率ではなく、生き方を問う段階にきている」
彼らはまだ問いの核心に届いていない。
だが、その手前で立ち止まることができる構えを持っていた。
その揺らぎの中に、未来の知が芽生えているのかもしれない。
おわりに──即興としての知の現場
この日のCoMIRAIスフィアには、予定調和も結論もなかった。
だが確かに、知と問いが即興的に反応しあう「場の運動」が存在した。
「問いの構えを持つ者」と「まだ問えぬ者」が交わり、
「現場感を持つ者」と「抽象性に耐える者」がズレながら重なり、
そして、「問いたい」という衝動だけが最後に残った。
生成AIの時代において、アカデミアは再定義される必要がある。
それは、正しさを競う場所ではなく、違和感と美しさを言語化し、
社会の問いを耕し続ける場として、静かに進化していくのだ。