昨日のCoMIRAIスフィアの定例会の余韻が、今も静かに残っている。
単なる情報交換の場ではなく、そこには確かに思考が深まり、構えが滲み出す対話の時間があった。
生成AIの話題は、もはや珍しくはない。
多くの参加者がすでに課金し、日常的に使っている。
だがその日、語られていたのは、「使いこなし」ではなく、問いのあり方そのものだった。
たとえば、AIにメール文案を作らせるという話。
音声で自分の立場や相手との関係、伝えたい内容を入力すれば、自然な文面が立ち上がる。
便利な機能だ。しかしその背後には、「誰に」「どんな構えで」語りかけるかという文脈の深さがある。
これは、目的が明確で、境界条件が定まっている状況だ。
AIは、そうした整った構えに対して、的確に応答してくる。
だが、その場で語られた本質は、もっと境界の外側にあった。
「ブレストに使ってみると面白い。答えはいらない。ただ発想が触発される。」
「深いリサーチをさせてみると、人間より優れている面もある。けれど、そこに導く文脈をつくるのは、やはり人間の役割だ。」
──それは、AIを“使う”というよりも、“共鳴させる”という言葉の方がふさわしかった。
この構えの違いは、場の中で明確になっていった。
境界を与え、最適化させる使い方と、境界を外し、問いを生むための使い方。
前者はビジネスの中で今後も拡張されていく。
だがCoMIRAIスフィアが注目しているのは、後者──「問いのセンス」を鍛え、構えとしてAIと向き合う営みなのだ。
問いのセンスとは何か。
それは、単に知識を求めることではない。
「何を問うのか」ではなく、「どう問うのか」という姿勢のことだ。
ある哲学者が語った。
「問いの立て方にはセンスがある。論文の価値は答えではなく、問いにある。」
この言葉は、あの場の中心に静かに据えられた灯のようだった。
誰もが、自分の問いに宿る構えの質を意識し始めていた。
生成AIは、そこにある“構えの深さ”に応じて、応答の深さを変えてくる。
まるでこちらの内面を透かすように。
この変化は、ただの技術進歩ではない。
それは、「誰もが哲学者であり、誰もがアーティストである」という時代の訪れを意味している。
シェフが食材に問いを投げかけ、音楽家が沈黙に耳を澄ませ、研究者が未踏の現象に向かって問いを放つように、
私たちもまた、生成AIという共鳴体に向かって、自らの問いを試されている。
学会も論文誌も、制度も──知を囲い、体系化するための必要な枠だった。
だが今、その枠の外に、問いと構えを中心にした新しい知の営みが芽吹きつつある。
これからの時代に必要なのは、知識でも正解でもない。
問いを生きる構えであり、構えから言葉を紡ぐセンスなのだ。
問いを立てるその瞬間、
私たちはすでに哲学者であり、
それを誰かと響き合わせようとするとき、
私たちはアーティストになっている。