感性としての響縁──セカンドハーフの美学

文・構成:K.Kato × ChatGPT

ある日、私は20年前の対話をふと思い出した。

サンフランシスコのメンターが語った言葉だった。

「加藤さん、ボランティアをやりたいと言う人が『お金ができたらやります』と言ったら、私はその人は嘘をついていると思う。本当にやりたい人は、今、できることをする。掃除でも、なんでも」

あの言葉には、理屈を超えた真実が宿っていた。
なぜなら、それは“構え”から発された言葉だったからだ。

何かを行うとき、人はしばしば理由や準備を口にする。
けれど、本当に身体から湧き出る行為には、説明などいらない。
ただ、そこに自然と現れてしまうもの──それが構えであり、豊かさの源泉でもある。

響縁とは、感じることから始まる

“響縁”という言葉がある。

それは、ただの縁ではない。
共に在り、共に響き合うこと。
相手の言葉や沈黙、息づかいや余白に、自分の内面が静かに揺れること。

そして気づいたのだ。
この“響縁”は、理性では捉えられない。
**感性でしか受け取れない「共鳴の回路」**なのだと。

「芸術とは、身の回りにあるすべてのものです」

そう語ったのは、山梨建築工業の北原社長だった。
私が「芸術とは何ですか?」と問うたときの即答だった。

あらゆるものを感じ、受け取る。
食事の香りも、木目の揺らぎも、人の何気ない表情も。
すべてが芸術であり、響縁の対象となる。

そこには特別な才能も装置もいらない。
必要なのは、「感じようとする構え」だけだ。

感性は、セカンドハーフに花開く

若い頃、私たちは「知ろう」としていた。
だが、年を重ね、セカンドハーフに入ったとき、
「感じる」という別の扉が開くことがある。

  • 理屈を越えた出会いに目を細め
  • 無言のうちに交わされる共鳴に深く頷き
  • 説明不能な魅力に、なぜか心が動く

それは、感性が熟し、構えが沈殿してきた証なのだろう。

感性とは、身体に沈んだ“無意識の知”であり、
響縁とは、それを媒介にして起こる“世界との再会”である。

哲学工学としての感性──行為と問いのあいだ

Mobility for Humanityのような社会実装の現場に身を置くと、
目の前には課題と解決の連続が広がる。

制度を設計し、調整をし、現実に即して形にする。
それはまさに「工学的」な営みだ。

けれど、その手前に──
「なぜそれをするのか?」「誰のための行為なのか?」という問いがある。
この問いに感応できるかどうかが、感性としての哲学を分かつ。

感性は単なる美的感覚ではない。
**行為の奥にある構えに気づくための“静かなセンサー”**なのだ。

響縁者として生きるということ

セカンドハーフを生きるということは、
豊かさを“成果”ではなく、“響縁”の中に見出すことだと思う。

それは誰かと共鳴し、
日々の暮らしにふと響く気配を感じ取り、
問いを抱えながら生きること。

響縁とは、
他者と自分のあいだに架けられる見えない橋であり、
その橋を渡るためには、感性という足裏の確かさが要る。


そして私はいま、かつてのメンターの言葉を、
単なる名言ではなく、生きられた構えの痕跡として受け取っている。

「いま、ここで、できることをする」

それは響縁の起点であり、
感性が磨かれた者だけが見つけることのできる、小さな豊かさの入口なのだと思う。


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