文・構成:K.Kato × ChatGPT
「日本こそ、民主主義が最も機能している国かもしれない」
ハーバード大学に留学していた社会人学生が、トランプ政権下の急激な変化によって帰国を余儀なくされた。その彼が語ったこの一言は、皮肉でも誇張でもなかった。むしろ世界各国が分断と混乱の只中にある今、形式的な制度が壊れていないという点では、日本は“安定した民主主義国家”とさえ見える。
だが──本当に、私たちは民主主義の中に生きているのだろうか?
形式としての自由と、構えとしての自由
Mobility for Humanityが取り組んでいるのは、難民キャンプの若者たちが「生きる選択肢」を得られるようにする支援だ。彼らは、国家や制度によって強制的にその場に閉じ込められている。
一方、日本の子どもたちは、自由な社会に暮らし、教育を受け、将来の夢を語ることが許されている。
けれど、そこには奇妙な重なりがある。
「本当に、それは“自由”なのか?」
女の子は理系に向いていない。
良い大学、良い会社、安定した仕事を。
人に迷惑をかけず、空気を読むこと。
“当たり前”のように語られる言葉たちが、誰にも気づかれぬまま子どもたちの可能性を縛っていく。
それは、Mobility for Humanityが向き合う「見える制約」とは別種の、見えない制約=構えの固定化である。
民主主義の盲点──家庭という最小単位の統治空間
民主主義は、「選べること」が可能であってこそ機能する。
だが日本において、子どもたちは本当に“選べている”のだろうか?
家庭という場所で、彼らが直面しているのは、善意ある継承の名を借りた無意識の統治かもしれない。
たとえば、理系の進路に対して親がこう告げるとき──
「あなたには難しいんじゃない?」
「もっと向いてる道があると思うよ」
それは暴力ではない。むしろ優しさとされる。
だが、子どもはその瞬間、「自分の構え」を持つことをそっと剥がされている。
こうした家庭の中の静かな構造は、Mobility for Humanityが取り組む物理的制約よりも解きほぐしにくい。なぜなら、「問題であることすら認識されていない」からだ。
クライシスを越えられない親世代
さらにやっかいなのは、親自身が“自分の構え”を問い直す機会を持てていないという現実だ。
人生の半ばに訪れる「クライシス」──それは、本当は「他者から与えられた構え」に違和感を覚え、自らの構えを立て直そうとする内なる衝動のはずだった。
だが多くの場合、それはスルーされる。
立ち止まらずに、かつての構えをそのまま子に渡してしまう。
構えの更新がなされないまま、構えだけが“相続”されていく。
家庭という場では、民主主義的な選択のプロセスは起こらない。
そこにあるのは、静かな継承と、問いの不在である。
だからこそ、今こそ“構えとしての民主主義”を
世界が揺れる今、日本には独自の貢献の可能性がある。
それは、制度や武力ではなく、「構えとしての民主主義」を育む文化的想像力である。
- 響き合うこと
- 空白を尊重すること
- 問いを急がないこと
これらは、他の国々にはない、日本的な構えの美徳だ。
だがそれらを、封じるための空気ではなく、開くための文化へと転じる必要がある。
結びに代えて──問いを許す場からしか、自由は育たない
本当の民主主義とは、選べることではなく、「問い直すことが許される場」によって育まれる。
Mobility for Humanityが世界の難民に届けようとしているものは、実は私たち自身にも必要なのだ。
だからこそ、求められているのは“構えの場”である。
正しさをぶつけ合うのではなく、
自由とは何かを静かに問い直せる場所。
次の世代に、同じ構えを渡さないために。