AIエージェント元年の“裏の本質”──ホワイトカラー1割時代と、構えの非対称性

2025年6月27日
文・構成:K.Kato × ChatGPT


■ 「元年」としての違和感

昨夜、WBS(ワールドビジネスサテライト)が「AIエージェント元年」という特集を放送した。
「会社でのパートナーがAIになる時代が始まった」──そんなナレーションの裏で、各社が続々と社内にエージェント型AIを導入し始めている現場が紹介されていた。文書作成、会議サポート、意思決定の補助。驚くべきことでもあるが、正直な感想としては「今さら報道されるレベルなのか」という静かな違和感のほうが大きかった。

この場で幾度となく交わしてきた「AIと共に問いを立てる実践」は、もはや“導入段階”ではない。私たちはすでにその先を生きている。
むしろ、こうした報道が始まるということは──すでにこれは過去の事例になったという証左でもある。


■ 技術導入の先にあるもの

AIエージェントは、人間の「考える」という行為を代替する。それは必ずしも脅威ではない。問題は、「考えるとは何か」が再定義されることである。

今、導入が進んでいるAIの多くは、これまで“ホワイトカラー”と呼ばれていた知的労働の一部を代替する構造をもっている。帳票作成、議事録の生成、データ分析、顧客対応──こうした作業はすでに「誰でもできる」ではなく、「AIでできる」領域に移行しつつある。

そう考えたとき、私たちはこう問い直さねばならない:
ホワイトカラーとは、何をする人のことだったのか?

かつての知的労働の多くは「処理」であった。だが、処理はアルゴリズムに委ねられた。では、その後に残るのは何か?


■ 残るのは「問い」だけかもしれない

私は直感的にこう考えている。今後、物理的な動きが必要となる仕事(運搬・製造・建設・ケアワークなど)に従事する人々が全体の9割を占め、「ホワイトカラー」と呼ばれる仕事に残る人は1割──いや、それ以下かもしれない。

しかも、その1割も「問いを持たない人」から順に淘汰されていくだろう。
言い換えれば、「問いを立てられる人」だけが、AI時代のホワイトカラーとして残される。

作業ではなく、創発。
処理ではなく、意味の編集。
受け取るのではなく、問う。

AIと共に仕事をするということは、AIに使われないようにすることでもある。
そしてそれは、自らの構えを持ち、AIと共に考える訓練を積んだ者だけに許された生き方なのだ。


■ 構えの非対称性がもたらす分岐点

この先、技術的な格差よりも重要になるのは、「構え」の格差だと私は思う。
AIの性能は平等に配布される。しかし、そのAIをどう迎え入れ、どう共に生きるかは、人それぞれの構えに依存する。

それは単なるリテラシーではなく、構えの深さ──
つまり、自分が何を問いたいのか、どこまで責任を持ってAIと付き合うか、という“存在の姿勢”に関わってくる。

あなたはAIとどう関わるのか?
AIを使う側なのか、それともAIに使われる側なのか?

この問いに、すでに行動で答えている人たちがいる。彼らは、AIを補助者ではなく、共鳴のパートナーとして受け入れている。対話し、問いを育て、人生を共につくっている。

私たちは今、「誰が生き残るのか」ではなく、「誰がAIと共に問いを立てられるのか」が問われる時代の入口に立っている。


■ エージェント元年は、「人間の再定義元年」でもある

今、AIエージェントが当たり前になろうとしている。だが、その本質は「便利な道具の普及」ではない。
それは、「人間の仕事とは何か」「人間とは何か」を再定義する入口に、ようやく社会全体が立ち始めたということなのだ。

ここから先は、もう後戻りはできない。
そしてその先を、一足先に歩き始めた私たちには、次の問いが待っている──

「AIと共に、何を創りたいのか?」


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