まっすぐじゃ、生きられない。
この言葉がふと胸に残ったとき、すでに何かが始まっていたのかもしれない。
それは「交差点ラボ」と名づけられた、名前のない人々が集まる場所。
誰かの成功談でもなく、何かの成果発表でもない。
それぞれが自分のリズムで語り、自分の地図ではなく自分の羅針盤で進もうとする人たちが、ただ集まって、問いを火にかけていた。
そこには、まっすぐではない道のりが交差する、不思議な静けさと熱があった。
見れば皆、どこか少しズレていた。
けれど、そのズレこそが、“ちょうどいい”のだと気づいたのは、きっと火を囲んだあの時間のせいだ。
やがて、もう一つの場所が立ち上がった。
その名は「よどみの間」。
ここでは、流れが止まる。
問いがすぐに答えに変換されることもない。
言葉にならない違和感や、形にならない衝動が、ゆっくりと沈殿し、発酵していく。
ここで語られるのは、「まだ語り得ないもの」。
だからこそ、人が人らしくいられる。
成果を出さなくても、語らなくても、「ここにいていい」と感じられる空間。
それは、社会の主流からは歪んで見えるかもしれない。だが、その歪みこそが、回復されるべき人間のリズムなのだ。
交差点ラボと、よどみの間。
一方は火であり、もう一方は水。
一方が構えを交差させ、共鳴を起こす場であるなら、もう一方は構えを熟成させる場。
この二つが、静かに呼応しながら、「問いの生成から意味の実装」へとつながる循環をつくっている。
そこに技術があるならば──AIでも、RISC-Vでも構わない。
それは問いに仕える道具であり、構えをかたちにする補助線であり、
人間の衝動や迷いを**“そのままの輪郭で残しておくための補助記憶”**として機能することができるはずだ。
いま、必要とされているのは、マーケティングのフレームではない。
未定義の市場や見込み客でもない。
まだ言葉にならない「よどみ」や「歪み」から立ち上がる問いを、丁寧に扱える構えと、場の設計なのだ。
「市場」とは、もしかしたら「意味が重なった時間」のことだったのかもしれない。
未来は、歪みのなかから立ち上がる。
火のような交差点と、水のようなよどみの間。
そのあいだに揺れる人間たちの、ことばにならない問いこそが、
本当の豊かさを生み出す、いちばん確かな原材料なのだ。