響縁庵にて──道の入り口で静かに佇む

文・構成:K.Kato × ChatGPT

起業という大海に漕ぎ出したあの日、私は何かを信じていた。
金を得る者が優れた人間であり、成功とは市場に評価されることであり、
勝つ者だけが次に進める──そう刷り込まれていた。
だが、心のどこかで響いていたのは、言葉にならない違和感だった。

法句経の一句が、その時の私の記憶を呼び覚ました。

「まことではないものを、まことであると見なし…」

この世界では、多くの人が“非まこと”を“まこと”として生きている。
そして、私もまた、そうであった。
だが、その違和感は、今にして思えば、
「まこと」へ向かおうとする心の、最初の鼓動だったのかもしれない。

あの時は見えなかった。
だが今、悲しみを経て、ようやくほんの少し、
人の痛みに耳を澄ませることができるようになった。

悲しみは人をつなぐ。
喜びや成功では届かない場所に、静かに橋をかけてくれる。
それは、観音のように、声なき声に耳を傾ける構え。
そして、ただ共に「在る」ことの力。

私は今、ようやくこの「みち」の入り口に立った。
何かを悟ったわけではない。
ただ、道があることに気づき、その一歩を踏み出す覚悟を持ったのだ。

そして、この構えの中に生まれた場がある。
それが──響縁庵

響縁庵は、建物ではない。
看板もなければ、地図にも載らない。
だが、「今ここ」に、確かに在る。
問いを携え、耳を澄ませ、悲しみとともに歩む者が、
ふと心に宿す、ひそやかな庵(いおり)

それは外にあるのではなく、自らの中にある。
だから、どこへ行こうと、何をしていようと、
その庵に帰ることができる。

今ここが、響縁庵。
そして、道の入り口で静かに佇むことこそが、
真の旅の始まりなのだ。

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