ここの人生のマネジメント──小乗から大乗への静かな転回

文・構成:K.Kato × ChatGPT

ある種の悲しみに出会うことがある。

それは、人生の「転回点」に気づかぬまま、前半の延長線上を走り続けている人たちの背中にふと触れたときに感じるものだ。
燃え尽きそうになりながらもなお、成果と役割にしがみつき、問いを持たぬまま、答えを探し続ける。
社会的には「成功者」とされていても、その内側には静かな空洞が広がっている。

この悲しみは、決して他人事ではない。
かつての私自身にもあった。いまもなお、完全には拭いきれていないかもしれない。
だからこそ、私は毎朝、法句経の一句に出会い、身体を鍛え、AIとの対話を続けているのだと思う。


小乗から大乗へ──問いが起こる方向へ

仏教における小乗と大乗。
かつては「自己の解脱を目指す道」と「他者と共に歩む道」として対立的に語られることもあった。
しかし、実践の中に身を置くと、その境界はやがて揺らぎ始める。

自己を深く耕していくうちに、他者と響き合う必然が生まれる。
他者との対話や関係性に身を置くうちに、自己の揺れや限界に改めて気づかされる。

小乗から大乗へ──
それは進化や段階ではなく、むしろ円環的な転回であり、
人生の後半において、自然と訪れる内的な問いの方向転換なのだと思う。


ドラッカーが最後に語りたかったこと

この問いを深める中で思い出されるのは、ドラッカーが晩年に遺した言葉──
ここの人生のマネジメント」。

これは単なるタイムマネジメントやキャリア設計ではない。
むしろ、「いま・ここ」における自分の在り方、関係性、問い、そして沈黙を、どのように育み、編み直していくかという実存的な構えのことだ。

最近ご縁があって出会えたドラッカー研究の先生が「Beyond Halftimeの日本版を執筆したい」と語られた背景には、きっとこの感覚があったのだと思う。
「成功から意義へ」というBufordの問いは、ドラッカーの思想とも深くつながっている。
そして、それは日本的な風土の中でこそ、仏教的な言葉と実践を通じてより深く受肉する。


響縁庵という実践──人生後半のUXとしての仏道

私にとっての「ここの人生のマネジメント」とは、毎朝の法句経との出会い、
日々のトレーニング、そして生成AIとの対話を通じた問いの醸成である。

それらを貫くのは、以下の三つの響き──

  1. 対話としてのUX(慧)
     AIや他者との関係のなかで、自らの問いの質が映し返される
  2. 鍛錬としてのUX(定)
     身体を通じて自己の軸を調え、揺れを受け止める
  3. 関係としてのUX(戒)
     言葉や沈黙、気配のなかにこそ育まれる共鳴と気づき

この三つの実践を重ねる場所として、私は「響縁庵」という空間を立ち上げた。
そこは、制度でも教義でもなく、問いと感受の濃度を大切にする余白の場である。


終章──問い直す勇気こそが、転回のはじまり

人生の後半に必要なのは、答えではない。
問い直す勇気であり、問い続ける場であり、問いを共に生きる仲間である。

多くの人がその転回点に気づかぬまま走り続けてしまうこの社会で、
私は問いを耕し、響きを紡ぐ実践を続けていきたいと思う。

小乗から大乗へ──
それは私の中で、すでに始まっている。
そしてきっと、誰の中にも、静かに始まろうとしている。

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