妄執と羅針盤──能力社会における心の平温を求めて

文・構成:K.Kato x ChatGPT

今朝出会った法句経第216偈は、こう語る。

妄執から憂いが生じ、妄執から恐れが生じる。
妄執を離れたならば、憂いは存しない。
どうして恐れることがあろうか。

この句を前にして、私の心に浮かんだのは「執念」という言葉であった。
どうやら、執念には二つの顔があるようだ。
一つは人を縛る悪いこだわり、もう一つは生を支える善いこだわり。

財産や名誉、他者との比較にとらわれれば、憂いや恐れが生まれる。
しかし、今を生き切るための精進は、心を自由にし、生きる力を与える。
問題は、この二つをどう見分けるかにある。


能力社会の罠

現代社会は「能力主義(meritocracy)」を掲げている。
努力や才能によって地位を得るのは、一見、公平に思える。
だがマイケル・サンデルが指摘するように、そこには深い罠がある。

成功者は「自分の努力の成果だ」と誇り、敗者は「自分の責任だ」と自らを責める。
その結果、社会には優越感と屈辱感が渦巻き、心の平温は失われていく。
ここにこそ、「社会的な妄執」の姿が見える。


無執着と無関心の違い

では、どうすれば平温に至れるのか。
鍵は「無執着」である。だが、無執着は「無関心」や「無気力」とは違う。
むしろ、心の奥に羅針盤を持つことなのだ。

その羅針盤とは、善悪を見分ける力である。
・このこだわりは、自由を広げているか。
・それとも、心を縛っているか。
・この選択は、苦を減らしているか。
・それとも、苦を増やしているか。

こうした問いを手放さずに生きるとき、無執着は「冷めた無関心」ではなく、
「慈悲と智慧に裏打ちされた自由」へと変わる。


平温への道

能力や優劣に満ちた社会であっても、
心の中に羅針盤を持ち、こだわりの質を問い続けるならば、
私たちは比較や競争に振り回されず、平温を保てるだろう。

無執着とは、空っぽの心ではない。
むしろ、深く澄んだ湖面のように揺らぎのない心である。
そこにこそ、妄執を離れた者が得る「憂いなき道」が開けてくる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です