文・構成:K.Kato x ChatGPT
朝、ヘッドホンを通してベートーヴェンの《田園》第1楽章を聴いた。
Kent Naganoの透明な響きに身をゆだね、深くゆっくりと呼吸を重ねていると、トレーニングでの力強い呼吸とは異なる、柔らかな時間が流れ出す。音楽は、自然の大きな呼吸に私の小さな呼吸を重ね合わせ、心体をひとつに戻してくれる。
同じ朝、法句経の一句に出会った。
勝利からは怨みが起こる。敗れた人は苦しんで臥す。勝敗をすてて、安らぎに帰した人は、安らかに臥す。(第201偈)
ファーストハーフを振り返れば、私は資本主義のゼロサムの中で「勝つこと」に縛られてきた。その時の心は荒み、安らぎなどなかった。だが今、セカンドハーフに入り、勝敗の軛から少し離れたところに身を置くとき、ふと心の安らぎを実感できる。
そして、若い世代が社会課題に挑む姿に、かつての「勝ち負け」とは異なる価値観の芽生えを感じる。
不思議なことに、ベートーヴェンも釈尊も、まったく異なる時代に生きた人なのに、彼らの遺した音楽や言葉は同じ場所を指し示す。
「勝ち負けを超えた安らぎ」「呼吸の回復」。
それは普遍的な人間の問いであり、だからこそ時代を超えて残ってきたのだろう。
今を生きるということは、単に「現在に集中する」ことではない。
今生きている人間が、自らの体感や呼吸を通して、時代を超えた響きを呼び覚まし、いまこの場に新しく更新していくことだ。
芸術も経典も、過去の遺物ではなく「今を生きるための呼吸」として立ち上がる。
私は今、体感していることと、時代を超えたものとを融合させているのかもしれない。
その重なり合いは、異なる水脈が合流し、新しい川となって流れ出すようだ。
そこにこそ、真理に近づく感覚がある。
日々の呼吸は、今ここに生きている証そのもの。
音楽を聴くとき、法句経を読むとき、あるいは何気ない一瞬にふと呼吸を意識するとき――そこに、勝ち負けを超えた安らぎと、真理への道がひらけている。