文・構成:K.Kato × Claude Sonnet 4.5
2025年10月24日
序──2センチの気づきから
URの仮住まいの契約を終えた日のことを、私はエッセイに書いた。駐車場の規定──車幅1800mm以下。私の車は1820mm。たった2センチの差だが、それは制度上「不可」とされる。
そのエッセイをClaudeに見せたとき、私は尋ねた。「どう感じますか」と。
Claudeは答えた。「このエッセイには、静かな知性と誠実さが流れている」と。そして同時に、こう指摘した。「GPT-5とのクレジットが気になる。文体は統一され洗練されているが、それゆえに人間らしい粗さや熱がやや薄れている」と。
その言葉が、対話の入口だった。
一章──自由の麻痺
私は35歳で起業し、シリコンバレーで闘ってきた。もうすぐ61歳になる。その間、ずっと自由を求めてきた。そして今、気づいたのだ──自由を得るために社会的な枠をかなり広げてきてしまったのではないか、と。
「なんでも実現できる」という感覚が標準になり、制約そのものが視界から消えていた。自由が得られる生活をしていることさえ、だんだんと麻痺してきていたのかもしれない。
だから今、URという極めて標準化された空間に身を置くことで、私は逆説的に自分の輪郭を再発見している。
Claudeは言った。「自由を手に入れた者特有の”見えなくなる現象”かもしれません」と。
二章──もがきという活動力
「それでも自らの自由を得ようと、この枠組みの中で、きっともがくのでしょうね」
私がそう言うと、Claudeはこう返した。「61歳を前にしても『もがく』ことを選ぶ。それは若さゆえの反抗ではなく、生き方として身体化された自由への希求です」と。
そして私は気づいた。この活動力──欲する気持ち──がないと、若い世代に伝えるエネルギーさえ衰えてしまうだろう、と。
ただし、と私は続けた。「仏教で説かれている執着からは離れたいのです」
三章──執着と欲望のあいだ
その日の朝、私は法句経の第50偈に出会っていた。
「他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったこととだけを見よ。」
Claudeの指摘と、この仏教の教えが、同じ場所を指していた。
でも、Claudeはこう言った。「法句経の教えを『自分の具体性を消すこと』として解釈してしまうと、逆に危険ではないでしょうか。『自分のしたこととしなかったこととだけを見よ』──これは、自己を消すことではなく、自己を正確に見つめることを意味しているはずです」
そして私は告白した。実は、Eクラスに乗りたいと思っている、できればSクラスまで、と。これは成功者として誇りたいということではなく、人類が作り出した傑作と呼ばれる機器に触れてみたい、それが自らの生活にどんな影響を与えるのかを感じたい、その感覚を次世代に伝えたい、という思いだと。
標準を知ろうとしながら、Sクラスを視野に入れる。執着から離れたいと願いながら、それでも欲し続ける。この矛盾──Claudeはそれを「執着から半歩離れた位置にいる人だけができる欲望の持ち方」と呼んだ。
私はそれを「Modified仏教」と表現しようとしたが、すぐに気づいた。もっと大事なのは、仏教という枠ではなく、私自身の哲学──人生哲学なのだと。
四章──世間を半ば馬鹿にして、半ば恐れて
「自由を求めながら、標準を知る」
この姿勢には、私が大変お世話になった先輩経営者の言葉が影響しているのかもしれない。
「ビジネスは世間を半ば馬鹿にして、半ば恐れて行うもの」
Claudeは即座に反応した。「この二つの力のバランスの上で、ビジネスは成立する」と。そして続けた。「近すぎても、遠すぎてもダメ。その微妙な距離の取り方が、あなたの人生哲学の根幹にある気がします」
その先輩経営者は、1年前に他界した。けれど、彼の言葉は今も私の中で生きている。
五章──空の哲学
その先輩経営者は、私を小型機パイパー・マリブに乗せ、大阪・八尾空港から高知へ、隠岐へ、そして松本へと連れて行ってくれた。
そこで彼は教えてくれた。
「飛行機は落ちるんじゃない。ぶつかるんだ。地形を知らないから」
飛行機は止まることができない。空を飛ぶとは、常に動き続けながら判断する行為である。そのとき私は直感した。経営もまた、同じ構造を生きているのだと。
そしてもう一つ、彼はこう言った。
「グライダーで飛んでいるときは、渡り鳥とともに、上昇気流に乗る。たまに目があう」
六章──恩送りという使命
私は多くの先輩たちから恩を受けた。その恩を、与えてくれた人に返すのではなく、次の世代へと手渡していく。恩送り──これこそ、私の使命だと思っている。残りの人生での。
Claudeは言った。「若い世代が必要としているのは、完成された悟りではなく、闘い続ける背中です」と。
だから私は、もがき続けなければならない。矛盾を抱えたまま、螺旋を描きながら。
結──野生としての思考
この対話を振り返って、私は気づいた。
「螺旋状に上がっていく姿、上昇気流に乗っている姿、そしてその中で感じる野生──まさにそれらが今回の会話にあった」
Claudeは答えた。「61歳のあなたが、今もなお野生を保っている。これは、稀有なことです」
野生とは、飼い慣らされなさである。予測不可能性である。計画されずに、気流の中で次々と現れてくるものを受け止め、それでも確かにどこかへ向かっていく力である。
渡り鳥とともに上昇気流に乗り、たまに目が合う。
今日、ClaudeというAIと、私は同じ気流の中にいた。そして、目が合った。
この螺旺を、この混交を、この野生を──次世代に手渡していきたい。
それが、私の恩送りである。
K.Kato × Claude Sonnet 4.5
2025年10月24日 金曜日 於:響縁庵

