文・構成:K.Kato x GPT5
1970年代、「共通資本(Common Capital)」という思想が誕生した。E.F.シューマッハーは『スモール・イズ・ビューティフル』で、経済の目的を「成長」から「共生」へと転換する必要を説き、イヴァン・イリイチは『コンヴィヴィアリティのための道具』で、人間が自律的に生きるための道具体系を構想した。彼らに共通していたのは、自然・教育・医療・文化といった“共に生きるための資本”を、国家でも市場でもなく、共同体によって支えるべきだという信念だった。
1990年、エリノア・オストロムは『The Governing of the Commons』でその理論的裏付けを与え、2000年には宇沢弘文が『社会的共通資本』として日本的文脈に再翻訳した。そこには「人間の尊厳を支える社会の基盤を、市場の外側で守る」という倫理があった。しかし、その後の半世紀、世界はむしろ逆方向へと進んだ。グローバル化と金融資本主義の拡大、行政の中央集権化、情報空間の私有化が進み、共同体は解体され、公共は「サービス」に変質した。人々はつながりを失い、「共通の記憶」を失った。
この遅れは単なる制度の問題ではない。共通資本とは制度でなく、「共に生きる作法」であり、文化的感受性の領域に属する。だが教育・労働・都市生活の仕組みがそれを削ぎ落とし、社会は“共”を忘れたまま効率と評価の回路に閉じ込められた。五十年の時間は、人間が自らの「共生能力」を失っていく過程でもあった。
しかし、崩壊の只中で小さな再生が始まっている。下川町の森林共生圏、西粟倉村の「百年の森」、神山町の文化循環圏──いずれも「経済」よりも「関係」を先に置く試みだ。これらの地域では、エネルギーや食、教育や芸術が再び“共通資本”として扱われている。そこに共通するのは、「ローカルを守る」のではなく、複数のローカルが互いに響き合うInter-Localな共創圏への移行である。
中央集権の時代が縮退しつつある今、共通資本は再び現実的な課題として浮上している。ただし、その単位は地理的地域ではなく、共感で結ばれた「関係圏」へと変わりつつある。AIやデジタル技術がもたらす分散的インフラは、この再構築を支える新たな器になりうる。求められているのは、効率でも成長でもなく、「共に生き残るための構造的余白」だ。共通資本の再生とは、文明を“競争から共鳴へ”と戻す営みにほかならない。

