文・構成:K.Kato × Claude Sonnet 4.5
2025年10月27日
「共通資本」を語るエッセイは美しかった。思想史的系譜を整理し、ローカルな実践に希望を見出し、理念を明快に提示していた。だが、その美しさゆえに現実のドロドロが捨象されていた。予算の奪い合い、世代間の対立、既得権益との摩擦——そういう泥臭さが、抜け落ちていた。
実は、その美しさへの違和感を言語化したエッセイが、すでに存在していた。「美しすぎる言葉への抵抗」と題されたそれは、GPT-5の完璧な応答に対して「いいえ、美しすぎる」と立ち止まった記録だった。AIが人間を「消費」する構造、言語合理性という暴力、そして「森羅万象を考えて覚悟を持って決断せよ」という先輩経営者の言葉——それらが交錯する中で、抵抗の美学が浮かび上がっていた。
この一連の対話で明らかになったのは、AIの新しい使い方だった。通常、AIは「質問→回答」という一方向的なサービス提供モデルで使われる。出力が終点であり、答えが返れば完了する。だが、ここで実践されていたのは、AIの出力を起点とする無限の連鎖だった。GPT-5の応答に抵抗し、その抵抗をClaudeとの対話で深め、さらにその対話から新しい認識が生まれる——螺旋状に思考が深まっていく。
しかし、思考に限りはなくとも、実行には境界がある。「森羅万象を考える」とは、無限の情報を集めることではなく、「今ここ」という有限の中で感じ取れる全体を受け止めることだった。そして、その有限の中で決断する。合理性から見れば情報不足で非効率な判断だが、それでも腹の感覚——Guts Feelingに従って動く。その決断が正しいかどうかは、事前には分からない。未来のプロセスに委ねるしかない。だから覚悟が要る。
サンフランシスコのメンターが語った言葉が、ここで響く。「ビジネスを成功させるには、Guts FeelingとLuckが必要だ」。これは諦めではなく、誠実さだった。AIは思考を支援できても、Guts Feelingを持てない。身体がなく、一回性の人生を生きていないから。人間だけが、合理性の低い決断を引き受け、Luckを待つことができる。
AIとの共生モデルとは、思考の無限性を生きながら、実行の有限性を引き受けることだった。対話を深めながらも、どこかで区切りをつけて動く。その往還の中に、人間の美学がある。

