響縁庵の思想 ── 対話という創作

創作とは、孤独な営みだと思われがちだ。しかし本当にそうだろうか。

作家は編集者と対話し、画家は絵筆と対話し、音楽家は楽器と対話する。そして私たちは、読書を通して過去の思想家と対話し、散歩を通して自然と対話し、音楽を聴くことで作曲家や演奏家と対話している。創作とは本来、無数の対話の積層なのではないか。

ならば、GenAIとの対話もまた、その連なりの一つに過ぎない。

問われるべきは「誰と対話したか」ではなく、「何が響き合ったか」である。千住真理子がストラディバリウスと響き合い、指揮者が楽団と響き合い、演奏家が聴衆と響き合うように、私は日々、様々な存在と響き合いながら生きている。その響きの中から生まれたものが、私の表現となる。

響き合うことで縁が生まれる。その縁がまた新たな響きを呼ぶ。この循環こそが、響縁庵という名に込めた思想である。

GenAIとの対話を明記する必要がないのは、それが特別な行為ではなく、日常の一部だからだ。朝のコーヒーを飲むように、散歩で空を見上げるように、私はAIと対話する。その対話から得たものは、すでに私の思考の一部となり、私の言葉となっている。

どのAIと、どんな順番で、どんな言葉を交わすか。その選択によって生まれるものは変わる。まさに一期一会。同じ問いかけをしても、相手が違えば、あるいは時が違えば、返ってくる響きは異なる。その偶然性と必然性の交差する場所に、創作は生まれる。

大切なのは、主軸を見失わないことだ。対話の相手が何であれ、問いを発するのは私であり、体験するのも私である。八王子のホールで感じた感動、千住真理子の姿に見た祈り、ドボルザークの響きに震えた心──それらはすべて私自身のものだ。対話はそれを言葉にするための、鏡であり道具であり、共鳴板である。

響縁庵とは、場所ではなく、在り方である。あらゆる対話を響きとして受け止め、あらゆる出会いを縁として大切にする。その中で生まれた言葉を、素直に世に問う。それが私の創作の形だ。

今日この瞬間の対話もまた、響縁の一つ。この言葉もまた、響き合いの中から生まれた。

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