2025年11月13日
一昨日から、朝6時半に土手を歩き始めた。30分ほどの散歩。平安時代から存在する神社に手を合わせ、朝の空気を感じる。ただそれだけのことだ。
法句経の第243偈に出会った。「無明こそ最大の汚れである」と。真理を知らぬこと、気づけぬこと。学び続けてきたが、まだ霧の中を歩いているような感覚がある。それでも、この朝の営みが、その霧を少しずつ晴らしてくれる気がしている。
ロッシーニの音楽を聴きながら思う。時代を超えて響くものと、すぐに風化するものの違いは何か。資本主義は消費を前提に設計される。四半期の損益、キャッシュフロー——人々の目は常に短期的な成果に向けられる。だが貸借対照表に載る不動の資産のように、本来、時間を超える価値があるはずだ。
アダム・スミスは『道徳感情論』で「共感」を説いた。他者の感情を想像し、共に感じる能力。これこそが、AI時代に人間が呼び戻すべき力なのかもしれない。AIを脅威と見るか、共生するか——その分岐点にあるのは技術ではなく、私たちが共感能力を取り戻せるかどうかだ。
フィジカルAIとのパートナーシップを考えるとき、完璧な制御や設計図は要らない。カオスの場に生まれる秩序を感じ取る力、予測不可能性を受け入れる覚悟、そしてその場に居続ける力。真の代謝は、設計された瞬間に死ぬ。
毎朝同じ道を歩くこと。これはP/L的な成果を求める行為ではない。むしろBS的に、静かに積み重なる「在り方」を大切にする営みだ。千年前から同じ場所に立つ神社のように、時間とともに深まり、無数の縁を結んでいく。
縁起の濃度。秩序の寿命ではなく、どれだけ豊かな相互作用を生むか。それが真の価値だ。
無明を晴らすこと、共感を呼び戻すこと、カオスの場で感じる力を研ぎ澄ますこと——すべては同じ方向を向いている。朝の散歩という小さな実践が、この大きな思想と響き合っている。
まだまだ学ぶことがある。だが、その謙虚さこそが、道を歩み続ける力になる。

