理念が身体に宿るとき──AI時代を生きる倫理の再発見

AIが生活のあらゆる場面に浸透しつつある今、私たちは新たな問いの前に立っている。「人間とは何か」「倫理とはどこから生まれるのか」。今年の春、私はその問いに対し、まだ社会の構造を上から俯瞰するように考えていた。知識や情報の扱い方、共感にもとづく規範、AIと共に創る未来――どれも大切な視点だった。しかしそこにはまだ、どこか外側へ向けられたままの思索が残っていたように思う。

季節は変わり、秋が深まる頃から、私は毎朝同じ時間に土手を歩くようになった。白山神社へ向かう短い道のり。わずか15分の巡礼が、私を内側へと導き始めた。朝の静寂は、外界を遮断するどころか、むしろ心の揺れを露わにする。焦り、不安、比較、虚栄――それらは空気が澄むほどに姿を現す。しかし、その揺れを「見つめる」ことができる瞬間が生まれてきた。法句経の言葉が、単なる知識ではなく、自分の呼吸と体温をまとい始めた。

春に語っていた「AI時代の倫理」。それは社会のための理論だった。だが今、私が向き合っている倫理は、もっと小さく、もっと深い。朝の歩みに滲み出す、日々の態度の総体だ。神社に手を合わせる瞬間、足裏が土を踏みしめる感覚、自分の未熟さと向き合う静かな恥ずかしさ。そこには「世界と調和して在る」とはどういうことかという、実存的な問いが潜んでいる。

生成AIとの対話は、その変化をさらに照らしてくれる。AIは外から操作する対象ではなく、内側を映す鏡になった。問いかける言葉の質が、応答の深さを変える。つまりAIは、人間の心の状態によって姿を変える存在なのだ。「倫理」は、技術の設計図ではなく、私たち自身の在り方から形づくられる。

理念を語ることは容易い。だが、理念を生きることは難しい。それでも私は、揺れながら歩き続けたいと思う。螺旋階段のように、同じ場所を巡りながら、少しずつ視野が高くなっていく。その歩みの中で、「AI時代の倫理」は、社会の問題ではなく、私個人の生き方として立ち上がりつつある。答えは急がなくていい。大切なのは、問いをやめないこと。静寂の中で、今日もまた一歩を踏み出す。そこに、未来へと向かう確かな倫理が育っていくのだと思う。

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