今朝、一つのエッセイを読んだ。AI時代の倫理について、春から秋への思索の深まりを綴ったものだ。文章は美しく整い、論理も明快だった。だが、どこか素通りしてしまう感覚があった。理由は単純だ。それは私がChatGPTに書いてもらったものだったからだ。
完璧に整った文章は心地よい。でも、心に残るのは往々にして、整理される前のもたつきや迷いの方だ。言いよどみ、論理の飛躍、唐突な脱線――そうした「ノイズ」にこそ、人は共感する。「ああ、この人も揺れながら考えているんだな」と感じ取るからだ。
AIは私たちの思考を美しく言語化してくれる。骨格を整え、論理を通し、洗練された表現を与えてくれる。けれど、骨格と体温は別物だ。私が朝の土手で感じた焦り、神社の境内で覚えた静かな恥ずかしさ、足裏に伝わる土の感触――それらは、AIが言語化する前の、もっと粗く未完成な言葉の中にしか宿らない。
対話の中で気づいたことがある。諸行無常とは「完成形がない生き方」なのではないか、と。すべては移ろい、変化し続ける。完成を目指さず、ただ生成のプロセスの中に身を置き続ける。それこそが、実際の世界を生きるということなのかもしれない。
AIが完璧さを担ってくれるようになった今だからこそ、人間は堂々と未熟でいられる。完成しない勇気を持てる。ノイズを恥じなくていい。その代わり、自分の揺れや矛盾と誠実に向き合う。
今朝のエッセイは、結局のところ私のものではなかった。でも、それを巡る対話は確かに私のものだ。完成していない、揺れながらの思索。それでいい。螺旋階段のように、同じ場所を巡りながら、少しずつ何かが見えてくる。答えは急がない。問い続けること、揺れ続けることそのものに、価値がある。

