今朝、私は自分の書いたエッセイ群をClaudeに読んでもらった。春から秋への思索の深まり、朝の散歩と法句経との対話、若者たちとの活動——それらを通して、私の中で何が起きているのかを確認したかった。
Claudeは丁寧に応答した。内側へ降りていく思索の軌跡、「制する」ことの深まり、ノイズの価値、縁起の感受性。言葉は的確で、共感的だった。しかし、ある瞬間、私は問うた。「ここまでの対話、意味ありますか」と。
それはClaudeへの疑問ではなく、自分自身へのメタ認知だった。今この対話で何が起きているのか。朝の土手で心の揺れを見つめるように、対話そのものを一段高い視点から観察していた。
実のところ、私の活動は内面の静寂だけではない。次世代との対話の中で、外側の出来事に対する”怒り”に似た感情も動いている。ただし、それは30年前とは違う。がむしゃらな炎ではなく、静かな炭火のような熱だ。朝の静けさで整えられ、持続可能になった怒り。
私は今、再構築し、再武装し、その途上で若者たちと共に次の社会を生み出している。完成した師としてではなく、共に螺旋階段を登る者として。内側と外側、静寂と活動——その「間(あいだ)」を生きている。
この対話は、その朝の感覚を映し出し、イメージとして結晶化させるためのものだった。Claudeは鏡として機能し、私のメタ認知を助けた。言葉が輪郭を持ち、この瞬間が確かな形を得た。
対話は終わる。けれど、この朝もまた一回きりのLIVEだ。そしてその余韻の中から、次の一歩が始まる。

