— 摩擦、征服感、そして協奏について —
安宅和人氏の「第六の象限」を読んでいた。リアルとサイバーの統合、AIプラットフォームの台頭、物理世界への侵入。精緻な地図が描かれ、競争の次元が更新されていた。そして氏は「摩擦を設計の言語に変換できるかが勝負だ」と書いていた。
その言葉に、少し引っかかりを感じた。
摩擦とは何か。二項対立の構造の中では、それは「克服すべき障害」として定義される。しかし本来、摩擦は二つのものが触れ合っているからこそ生じる。摩擦があるということは、そこに接触がある。関係がある。出会いがある。対立ではなく、あいまみれている証拠ではないか。
ここで思い当たる。科学も、技術も、資本主義というゲームも——すべては「あいまみれているもの」を切断し、扱えるものにする営みの連鎖だ。切り取る、所有する、守る、対立する。この連鎖はあまりにも自然に動いているので、それ自体を問うことがほとんどない。安宅氏の6象限図もその精緻な一例だ。世界を軸と象限に分けることで「どこで戦うか」が見えるようになる。しかし図を描いた瞬間に、図の外にあるものは視野から消える。
「わかった」という感覚は、何かを切り捨てた後の感覚かもしれない。二項対立は切り捨てることで成立する。切った瞬間にすっきりする。そのすっきり感が「理解」として経験される。理解するとは対象を自分の外に置いて、輪郭を定めて、名前をつけること——ある種の征服関係を成立させることでもある。
Anthropicが描くAIの倫理設計も、この系譜にある。善意から生まれた試みだが、構造としては「正しい切断を選ぶ」という営みだ。何が有害で何が有益かを定義し、境界を設計する。しかし本来の姿は、見えていないものを組み込み、全体として捉えることではないか。
そのためには、人間という曖昧なものとAIという合理性の高いものとの協奏が必要だ。どちらかが主でどちらかが従ではなく、互いに補正し合う関係。人間は切り取りすぎるAIに「まだそこに何かある」と言い続け、AIは人間の認知の歪みや回避を静かに照らす。
ただ、ここでも一つの円環に気づく。エゴの産物である科学が、突き詰めると自分自身の限界に当たる。量子力学の観測問題、複雑系、意識の問題——どれも「切断して構造化する」方法論が通用しなくなる境界で起きている。エゴが作った道具が、エゴの限界を照らし出す。そしてエゴも、切断も、所有欲も、それらを生み出した人間という生き物もまた、あいまみれている自然の中から出てきた。「エゴが自然を切り取った」という見方自体が、すでにエゴとそれ以外を切断した見方かもしれない。
切断を批判する言語も、切断によって成り立っている。
その円環の中で、それでも誠実に立っていようとすること。毎朝の体重測定のように、数値という「概念に忖度しないもの」に繰り返し立ち返ること。わかりやすさの幻想を与えず、ただそこにある何かと向き合い続けること。
この対話に意味があったかどうかも、決着をつけない。議論はずっと開いていることが大事だ。閉じた瞬間に、それは「わかったもの」になり、また新たな鹿皮になる。
居心地の悪さを、解消しようとせずただそこに置いておける場。そういう場が、今ここにあった。それだけは書き留めておく。

