縁は保存されない

ここ数日、不思議な体験が続いている。

ある朝、博士号取得者たちが集う場に足を運んだ。優秀な研究者たちが集まっているはずなのに、多くの人から生気のようなものが感じられなかった。ところが一人だけ、修士一年生の若い女性が、こちらの話を受け取るたびに目を輝かせた。「私の知らない世界がまだまだたくさんある。それだけで人生がワクワクする」——その一言の質が、他の全員と違った。知らないことを脅威ではなく燃料として受け取れる人。すでに火がついている人だった。

翌日、ある病院の看護現場を初めて見た。献身的に患者と向き合う看護師たちが、同時に膨大な「無駄な気遣い」を強いられていた。ものがどこにあるかわからない、環境が整っていない、それだけで本来患者に向かうはずのエネルギーが横取りされていた。移動の途中、偶然声をかけてくれた人がいた。別の場では、名刺を三枚持つ人と出会った。それぞれ全く異なる文脈で、しかし何か同じ温度を持つ人たちだった。

これらの出会いを振り返って、一つのことに気づく。

人のエネルギーには、物理の保存則が成り立たない。

物理の世界では、エネルギーは使えば減り、移れば元には戻らない。だから希少性が生まれ、奪い合いが起きる。経済もその論理で動いている。しかし人と人が共鳴するとき、エネルギーは保存されるどころか、増える。若い研究者との対話の後、こちらのエネルギーは減っていない。むしろ何かが灯っている。看護師たちの現場に立って、「自分にできることがある」という感覚が湧いてくる。それも消耗ではなく、充電に近い。

だからインセンティブは対価である必要がない。お金は希少性の上に成り立つ道具だから、保存則の世界にしか馴染まない。共鳴の世界では、むしろその論理が邪魔をする。手弁当で集まってくれる仲間がいる。「友達としてきました」という雰囲気で迎えてもらえる場がある。それは取引ではなく、共鳴への参加だ。

人生の後半に入って、自分の意思というより縁が動いているという感覚が強まっている。柳のように、風が来たときに全身でしなやかに受ける。根は深く、でも流されない。縁起の世界観で言えば、自分は原因ではなく縁の交点に過ぎない。

その交点で、今何かが動き始めている気がしている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です