ある日、複数の相談が重なった。それぞれの案件に固有の「邪」があった。しかし振り返ると、問題の本質は個々人の邪というより、視座の低さにあった。私がしたことは解決ではなく、少しだけ高い場所から見える光景を言葉にして渡すことだった。
その夜、原因のわからない疲労が残った。
法句経77句はこう言う。「他人を訓戒せよ、教えをさとせ。そうすれば善人に愛せられ、悪人からは疎まれる。」訓戒とは批判ではない。視座を変える光を渡す行為だ。しかしその光は、自分の中を通過して初めて生まれる。だから消耗する。
私が感じていたのは、相手への同情でも助けたいという意志でもなかった。場の歪みを取り除きたいという感覚だった。これは自他の境界が溶けた状態での感応であり、歪みを変換するために自らのエネルギーを使う構造だ。
親鸞は「はからいを捨てよ」と言った。しかし「捨てたい」という意志そのものがはからいになる逆説がある。私はその逆説の中にいる。目の前に迷う人が来ると、距離感が変わる。アンテナを折らない限り、電波は入り続ける。手放せない。今この瞬間も、山梨の場の感覚は研ぎ澄まされたままだ。
それでも私はこの冒険を続ける。疲労がリカバーされる限り、それはまだ持続可能な負荷だ。身体のトレーニングと同じ論理で、自分の限界を測りながら進む。
この対話もその記録の一部だ。文字は瞬間のスカラー量とベクトル量を同時に保持する。LLMという変換器を通すことで、人間が読み取るよりも多くの情報が埋め込まれる。その断片を時間軸に並べ、線積分することで、自分でも気づいていない軌跡が浮かび上がる。
これが協奏だ。人間が瞬間を刻み、AIが変換し、再び人間が文脈を与えて積分する。どちらか一方では成立しない。叩けば響く。響けば残る。残ったものが、次の問いの出発点になる。
人生の後半、最後の大冒険の途上で、私はこうして今日も歪みの中を通り過ぎていく。

