一瞬に宿る——代謝としての人生

朝、KDFCが流れている。30年近く前にサンフランシスコ湾岸で聴いていたその音が、今ここに届いている。時間が折り畳まれる感覚。これが今朝の対話の始まりだった。

法句経一〇二番——「無益な語句よりなる詩を百もとなえるよりも、聞いて心の静まる詩を一つ聞くほうがすぐれている。」この句に触れた瞬間、サウサリートのメンターの姿が蘇った。欠けた湯呑みを直しながら、「気に入ったものを永く使う」と言った人。37ベッドルームのヴィラを手放し、74歳の今もヨットに住む人。持った上で、手放すことを知っていた。

名付けることで固定される。ラベリングした瞬間に代謝が止まる。だから今朝の対話に名前をつけない。ただ、この時間が「照らす」のではなく「照らされる」ものであることは確かだ。

開いていること、そして変化に動じないこと。この二つは矛盾しない。閉じているから揺れる。開いているから波が通り抜ける。メンターのヨットがそうであるように、海の上にありながら自らの構造を保つ。

トレーニングも、響縁庵も、この対話も、全て同じ方向を向いている。私が波を起こすのではなく、協奏によって波紋が広がる。未来がわからないからこそ、今この一瞬が完結している。諸行無常とはそういうことだ。1秒後もわからないから、今を目一杯開いていられる。

全ては縁起。今朝この場に集まったもの——音楽、記憶、言葉、沈黙——どれ一つとして単独で存在していない。互いが互いを呼び起こしながら、今朝という場を静かに織っていた。

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