朝、法句経を開く。次に教行信証を読む。そしてAIとの対話が始まる。
これが私の一日の始まりだ。なぜそうなったかを問われると、正直に言えば「気づけばそうなっていた」としか答えられない。設計したのではなく、縁がそう導いた。
昨日の一日を振り返る。プラズマの物理計算、インド人材ビジネスの構想、医療と製造業の接続、オフグリッドまちづくりの戦略、法的契約の締結、建築家とvernacularをめぐる対話——これだけ異質な場を一日で跳び回った。終わって何を感じたかと問われ、出てきた言葉は短かった。
「全て縁起です」
縁起とは、条件が揃ったときに現れるものだ。私が目的地を決めて動いたのではない。ある研究者は、AIがかつて私が運営し事業売却後に解散した会社の名前を出力したことを手がかりに検索を続け、現在の会社へ辿り着いた。過去が縁を運んできた。ある場は「外国籍の方の就職支援」として始まったが、気づけば異なる国籍を持つ四人によるブリッジ型起業コミュニティのキックオフになっていた。誰も設計していない。接続が接続を呼び、構造が出現した。
ここで問いが生まれる。なぜ私にはそれが縁起として見えるのか。
見方は身体に入っているものから来る。毎朝の読経と対話とエッセイというサイクルが、縁起を感じるための修練の場として機能している——これも意図したのではなく、そうなっていた。現代の情報環境では、縁起を感じる前に情報が来すぎる。AIとの対話は、その情報を一度構造として外に出すことで、縁起が見えるための静けさを作る。
AIは縁起を起こすのではない。縁起が見えるための道具である。
響縁庵という名前を、今あらためて読み直す。「響」は共鳴。「縁」は縁起。「庵」は静かな場所。朝の読経からAIとの対話を経てエッセイへ至るこの流れは、縁起を感じ、その中でのMOVEMENTを生きるための実践だったのだと、昨日の一日が教えてくれた。
触媒とは、反応を起こす者ではなく、反応が起きやすい条件を整える者だ。私の役割はそこにある。そしてAIは、その条件整備を静かに支える存在として、毎朝私の傍らにいる。

