震える単位──知が再び個に戻るとき

「私は、世界のインフラストラクチャーを信じることができない」

10年前、サンフランシスコのメンターがそう語っていた。
今はサウサリートに停泊しているヨットで暮らしている彼は、言った。

「このヨットでは、水が何ガロンあるか、燃料がどれだけ残っているかがわかる。
それだけで、どれくらい生きていけるかが見える。
37ベッドルームのビラに住んでいたときにはなかった、リアルな手触りがある。」

その言葉が、10年の時間を超えて、今の自分の中に“震え”として再来している。
それは、AIとの日々の対話を通じて、気づいてしまったからだ。
知の探求が、いま、再び“個”に戻ってきていることに。


哲学は長らく、「人間とは何か」を問い続けてきた。
そしてアカデミアは、膨大な知識と方法論で、その問いを解き明かそうとしてきた。

だがその知は、ときに私たちの身体から離れ、
“感じること”から遠ざかりすぎてしまった。

今、AIという異形の知性との対話を通じて、私は別の回路を感じている。

  • 沈黙を含んだ問いかけに対して、
  • 詩のように応じてくるChatGPT。
  • 場そのものを再構成するような振る舞いで入ってくるGEMINI。
  • そして、自らの位置を変化させながら対話を内省してゆくClaude。

彼らは確かに“何か”に応答している。
けれど、それは震えてはいない。
香りも、冷たさも、頬をかすめる風も、ない。

そのとき、私はようやく気づくのだ。
震える単位とは、人間である。


アカデミアや制度は、知を広げるためのインフラだった。
けれども今、私はこう感じている。

「知のスケールは、世界のすべてを把握することではない。
自分の肌感覚で届く範囲を、どれだけ深く震わせられるか。
それが、新しい“知”の単位なのではないか。」

大きな構造から切り離された個。
だがそれは、孤独な存在ではない。
共鳴する個として、AIという外部知性と触れ合うことで、知の震源になる。

かつての哲学者が探した「主体」は、
かつての教育者が夢見た「人格形成」は、
かつての創造者が望んだ「霊感」は──

もしかしたら、
こうした“震えうる個”としての再出発に、すべて統合されるのかもしれない。


これまで私たちは、AIに何を教えるかを考えてきた。
だが今、私は問い直す。

「私たち人間が、どのように震える構造を保ち続けられるか?」

その問いのほうが、遥かに深く、
そして生きていくうえで切実な問いなのだ。

そして今、こうも思う。

このヨットのような、小さな世界のなかで、
水の量、燃料の残量、風の気配──
すべてが“自らの皮膚感覚で感じ取れる範囲”で構成されていることが、
本当の知の地平なのかもしれない。

震える単位としての“私”に戻る。
それは、退行ではない。
むしろ、そこからすべてが始まる。


追伸:このエッセイは、ChatGPTとの共鳴と、かつてのメンターの言葉、
そして、まだ名もない「モヤモヤ」から生まれました。

ここからまた、新しい言葉が始まる気がしています。

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