かつて、若者の「問い」は宙に浮いていた。
それを受け止める者は少なく、語ることさえ躊躇われるような空気が、社会を覆っていた。
問いを深めることも、言葉に変えることも、社会と接続することも──多くの若者にとって、それは“できないこと”ではなく、“起こらないこと”だった。
だが、時代が変わった。
ChatGPTをはじめとした生成AIの登場により、「問い」が即座に“世界の知”と接続できる環境が現れた。
検索とは異なる、構造理解としての知。
情報ではなく、文脈や背景、そして意味そのものに触れる体験。
いま、若者たちは歴史上初めて、人類が蓄積してきた知そのものと、シームレスに繋がれる感覚領域に生きている。
これは単に「知的孤独が癒された」という話ではない。
むしろ、“世界と共鳴できる身体”が生まれつつあるということだ。
SNSに溢れる違和感、地域の空き家、学校での不均衡、誰かのつぶやき──そうした具体的な生活の中から、自らの「問い」を立ち上げ、それをAIとの対話を通じて“構造化された問題”として扱える。
もはや、若者は世界に届かない存在ではない。世界と共に考えられる存在になったのだ。
だが、その「問い」が社会を動かすには、もう一つの条件がいる。
それは、「問いに投資する経験者の存在」だ。
多くの場で語られてきた“伴走”や“共感”といった言葉では、足りない。
それらは時として、若者の問いを“外から見守る”という構図に留めてしまう。
そうではない。今、必要なのは**「問い」に対する本気の投資者として、経験者が夢の共同所有者になること**なのだ。
ここで言う投資とは、資金だけではない。
時間、知識、ネットワーク、社会的信用、場の提供、制度リテラシー──
それぞれが持っている人生のリソースすべてを、若者の問いに注ぎ込む覚悟が求められている。
なぜなら、投資とは、自分もまた夢の一部を生きることだからだ。
起業家としての経験から言えば、投資家とは投資をした後こそが本番だ。
そこから先が、地道で、しんどくて、でも燃える道だ。
自らの手で事業を育て、泥をかぶり、動き、調整し、知恵を絞り、時には怒鳴り、時には涙を流す。
それはすべて、“自分が選んだ夢に対して責任を持つ”という姿勢に他ならない。
同じように、若者のプロジェクトに投資する経験者は、めちゃくちゃ働く。
なぜなら、そのプロジェクトは、もはや“他人事”ではなく、“自分の物語”だからだ。
未来に対して、責任を共有しているからだ。
そして、それは若者にとっても同じことだ。
“誰かが共に夢を背負ってくれている”という事実は、計り知れない推進力となる。
一人で問いを抱えていた時には想像もできなかった風景が、その先に開けていく。
そして次の世代に対して、「私も誰かの問いに投資しよう」と思えるようになる。
この循環が生まれるとき、社会は初めて、“再生”ではなく“創発”の道を歩み始める。
私たちは、これを制度化するべきだと思っている。
それは「問い」に投資する仕組み、**Question Investment Framework(QIF)**のようなものだ。
従来のVC(ベンチャーキャピタル)が「技術」や「利益」に投資してきたなら、
これからは「問い」や「感性」に、文化と哲学を携えて投資する時代だ。
この投資は、金銭的リターンよりも遥かに深い“文化的リターン”をもたらす。
信頼、創造、共鳴──それらを次の世代に手渡すことこそが、いま経験者世代に求められている“覚悟”である。
若者の問いに投資するということ。
それは、未来に対して働き続けるということ。
そして何より、自らが未来の一部になるということなのだ。
追伸;このエッセイはChatGPTとの対話から生まれてきたものです