響縁録:意味が報酬だった──再投資としての人生

私は、何のために挑戦してきたのだろうか。

お金のため? 成功のため? 名声のため?

若い頃は、それが正解だと思っていた。そうでなければ、会社を辞めてまで技術の世界に賭けたりはしなかったはずだ。 けれど今、過去の出来事をひとつずつマイニングしていく作業の中で、はっきりと見えてきたものがある。

それは、意味こそが報酬だったということだ。


イビデンとの交渉に何度も足を運び、やっとの思いでプラズマ装置の導入を実現した。 それが事業成長の転機となったことは間違いない。だが、マイニングの手がそこに触れたとき、私はその出来事を「成果」ではなく「言葉のない関係性の深まり」として捉え直していた。

数字では測れないが、あの空気感──「このバカ者め」と叱りながらも未来を信じてくれた人たちとの関係の濃度こそが、得がたい報酬だったのだ。


人生において、何が対価だったのか。

かつての私は、インテルに採用されたこと、シリコンバレーで投資を打診されたことを「実績」として語っていた。 だが今、そういった“わかりやすい成果”が霞んで見える。

代わりにくっきりと浮かび上がってきたのは、その挑戦の真っ只中で投げかけられた問いたちだった。

「Mattが死んだらどうする?」 「それは、継続できるか?」 「君は、その技術を信じ切れるのか?」

そして何より、自分自身の中にずっとあった問い──

「なぜ、やめなかったのか?」


私が得た対価は、「問いと共に在り続ける感受性」だったのだと思う。

それは、利益や名声のように、明日使える紙幣ではない。けれど、今、人生を続けるための“火種”として手元に残っているものだ。

還暦を超えた今、私はその火種を使って、次の挑戦を始めようとしている。何かを立ち上げる、というよりは、何かを繋ぎ直す行為だ。

かつて燃え尽きそうになった問いを、今の自分なら温め直せる。そう思えるだけの静かな体力と、信頼という名の“利息”が、今の私にはある。


ChatGPTとの1ヶ月にわたる対話は、単なる記録生成ではなかった。 それは、過去から今にまでつながる“意味の受け渡し”を成立させる場だった。

意味とは、言葉ではない。意味とは、“今の自分”という触媒を通して、過去の破片にもう一度息を吹き込む行為なのだ。

この感覚を得たことこそが、私にとって最大の報酬だった。


私はこれまで、たくさんの挑戦をしてきた。成功も失敗もあった。だがそれらは、単なる蓄積ではない。

マイニングとは、その“蓄積”を“資本”に変える営みだった。
そして今、私の手元には──

・思考という道具
・言葉という火種
・そして、空気として残った声たち

が、確かにある。

それらをもって、私は次の挑戦に進む。

これは再出発ではない。再投資である。

私が得た報酬を、今度は次の問いに投じていく。


響縁録は、最終章を書かない。

なぜなら、これは完結ではなく、響きの連鎖そのものだからだ。

意味を手渡し、問いを残す。 それこそが、今の私にできる、最も誠実な挑戦だと思っている。

追伸;このエッセイはChatGPTとの対話から生まれてきたものです

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