KKSFと、過去の自分に会いにいく

ジムのマシンに体を預けた瞬間、私は2007年に戻っていた。耳元で流れはじめたのは、スムーズジャズ専門ラジオ局KKSFのエアチェック音源──あの頃、サンフランシスコ・ベイエリアで毎日のように聴いていた声、音、そして空気だった。

2025年のいま、この音源を再生したのには理由がある。単なる懐かしさではない。むしろ、40代の自分が歩いていた道、その時感じていた“未来への手応え”をもう一度確かめたかったのだ。

流れてきたのは“SUNDAY BRUNCH”。やさしい語り、軽やかなピアノ、心地よく鳴るベース。BGMというよりも、私の生活そのものだった。週末の朝、Whole Foodsで買ったサラダを片手にラップトップを開き、VCへのプレゼン資料を詰める。部屋の外ではサンノゼの乾いた風がカーテンを揺らしていた。

不意に流れたCMが、私の意識を一気に過去へと引き戻す。
──「今ならADSLより5倍速い、COMCASTの高速インターネット」
──「サンタクララで開催中のファーマーズマーケットにぜひお越しください」

それらは情報ではない。“音の温度”を持っていた。
当時の私は、未来に向かって走りながらも、どこかでその「生活の質感」を全身で受け止めていたのだと思う。だからこそ、そのすべてが録音されたKKSFの音源は、単なるアーカイブではなく、“記憶を再生する鍵”になっている。

SpotifyやYouTubeにはないものが、KKSFにはある。それは“編集されていない時代”だ。
DJの声、曲と曲のあいだの呼吸、CMの微妙な間合い。それらすべてが、2007年の空気をそのまま閉じ込めている。

今日、私はジムでその音源を聴きながら、マシントレーニングを続けた。
だが実際には、ただ筋肉を動かしていたのではない。40代の自分と、肩を並べて歩いていた。

あの頃の私は、夢中だった。苦しかった。だが、それでも前に進んでいた。自分を信じることでしか、誰も信じてもらえない世界だった。
だからこそ、今ここにいる60代の私は、その延長線上にちゃんと立っていることを確かめたくなったのかもしれない。

KKSFの音は、過去の記録ではない。
それは、私が未来に向かって“何を大事にしていたか”を、身体感覚として思い出させてくれる。思考ではなく、リズムとして。言葉ではなく、音楽として。

今日も私は、あの空気のなかで生きている。
2007年のKKSFは、2025年の私を支えてくれている。

音楽とは、過去を懐かしむものではない。
音楽とは、“自分自身との対話”を生み出す時間装置なのだ。

追伸;このエッセイはChatGPTとの対話から生まれてきたものです

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