Noteの記事である「デザイン思考はなぜ期待された飛躍的イノベーションをもたらさなかったのか:学術的視点からの原因分析」
https://note.com/zenschool/n/ndd9834cc77b1?fbclid=IwY2xjawJpF4lleHRuA2FlbQIxMAABHsb8XQuEW2v7lqgfqF8tKA63b1A494S202tGRbw7kdgBQ7qU9kQx-ivgwrfk_aem_-99P190BM8A3QGpPLdG6-g
を読んで考えたことをまとめた。
「知ること」は、私たちに安心を与えてくれる。
この世界はこうなっている、社会はこう動いている、自分はこうあるべきだ──
確かな“答え”があることで、私たちは日々の選択に迷わず進むことができる。
けれど、イノベーションや創造の源泉を探ろうとすると、
この“確かさ”こそが時に、最大の障壁になる。
予定調和の中では、気の利いた改善は生まれても、
世界の枠組みそのものを揺るがすような飛躍は生まれない。
そこに必要なのは、**混沌の中に意味を見出せるような“知のゆらぎ”**なのだと思う。
飼いならされた理性、眠っていく狂気
人は長く生きるほどに、尖っていた部分が削られていく。
異端であることは危うさをはらみ、時に排除の対象になる。
だからこそ、社会の中でうまくやっていくために、私たちは角を丸くしていく。
狂気のような熱やこだわり、過剰さを、理性の奥深くに沈めてしまう。
だが、それは「失われる」のではない。
眠っているのだと、私は思う。
そしてその眠った狂気は、ある種の「他者性」との出会いによって、ふたたび目を覚ますことがある。
狂気を呼び戻す場──若き野生との交錯
それは、たとえば狂気をまだ内に宿す若者たちとの出会いかもしれない。
彼らはまだ、“社会的な正しさ”に完全に馴染んでいない。
問いは、まっすぐである。
視点は、時に暴力的なまでにまっさらである。
そのまなざしに触れるとき、私たちは自分の中にかつて灯っていた火の存在を思い出す。
若者の狂気に揺さぶられることで、眠っていた大人の“内なる跳躍”が起動する。
ここに、世代を超えた創造の場の可能性がある。
「ゆらぎ」に身を置くという選択
しかし、混沌やゆらぎに身を置くことは、簡単なことではない。
知っていることが崩れ、「わからない」が増えていく。
意味の輪郭が曖昧になり、対話に終わりが見えなくなる。
それでも、私たちが本当の意味で創造的であろうとするなら、
この“わからなさ”に耐える力、ゆらぎを生きる知性が不可欠だと思う。
つまり、
- 結論を急がず、
- 矛盾や曖昧さにとどまり、
- 未分化な問いに共に向き合う
そんな場にこそ、次の時代の灯がともる。
結びに──意味を見出す行為そのものが、創造である
私たちは、混沌に意味を与える存在だ。
名もなき感覚に言葉を与え、バラバラの断片を物語に編み直す。
この「意味をつくる」という営みの中に、創造の原型がある。
そしてそれは、
理性だけではできない。
狂気と理性のあわいに揺れる“知のゆらぎ”のなかにこそ、
新しい未来が立ち上がるのではないか。
この不確かな時代だからこそ、
私たちはもう一度、“ゆらぎ”に身を置く勇気を持ちたいと思う。