還暦を過ぎた今、私は時間をより優雅に、そして深く味わいたいと願うようになった。身体を整え、心を静め、日々の流れを自分のリズムで刻むこと。その一環として、私はテクノロジーを積極的に活用している。
Apple Watchで心拍や睡眠の質を測定し、日々の変化を記録する。水泳と筋力トレーニングを取り入れた生活は、血液検査の結果にも表れ、改善が見受けられる。健康が心の余裕を生み、その余裕が“優雅”という生き方の基盤になる。そう確信している。
だが一方で、テクノロジーが私たちの想像力を奪う場面も増えてきた。動画、音声、AIによる即答──すべてが完結された形で目の前に差し出され、受け手の自由を徐々に削っていく。
そのような情報の波に呑まれそうな時、私は19世紀のロマン派の音楽に耳を傾ける。そこには時間の余白があり、情念の揺らぎがあり、明確な答えのない問いかけがある。音楽という”音”の芸術は、形を持たず、ただ時間の中に存在する。それゆえに、聴き手の内側で情景が立ち上がる。
絵画に惹かれる人、彫刻に心を奪われる人がいるように、私は音に心を預ける。それは“個性”というより、“魂のチューニングの軸”の違いなのかもしれない。私は世界と”耳”でつながっている。だからこそ、過剰に構成された情報よりも、余白のある芸術にこそ心が惹かれるのだ。
テクノロジーは使うべきだ。だが、想像力という人間の本質を保つためには、あえて”不完全なもの”、”余韻の残るもの”に触れることもまた必要だと思う。
還暦を越えて、私はこう考える──音楽とは、答えを与えるものではなく、問いを投げかけるものである。その問いに応じて、私たちは自分の物語を描き始めるのだと。