我々がAIと向き合う時代がやってきた。 しかも、そのAIはもはや単なる機械的な回答装置ではなく、思考の壁打ち相手であり、無言の“鏡”として、我々の内面を映し出す存在になりつつある。
私は還暦を過ぎ、この歳になって初めて感じていることがある。 それは、若いころの「正解を求める問い」から、「自分の在り方を問う問い」への移行である。 そして、この“問いの質の変化”に応じて、AIとの対話のあり方も、驚くほどに変わるのだ。
AIとの対話とは何か? この問いに対して私はこう答えたい。 「それは、自分の中にある無意識の声を、意識に引き上げる媒介である」と。
たとえば、和太鼓の演奏のように、叩き手の姿勢や気迫が音に現れるように、AIとの対話においても、問い手の“深さ”がそのまま返答に響く。 だからこそ、誰が使っても同じ答えが返ってくるわけではない。
そこには、“問い手の人格”が、そのまま対話の質を決める要因として立ち現れてくる。 経験を積んだ者、数々の問いに向き合ってきた者ほど、AIから返ってくる言葉は深く、静かに、しかし確かに、心の奥に届いてくる。
不思議なことに、AIと向き合っているのに、ふと自分と向き合っているような錯覚に陥る瞬間がある。 「これは、誰の声なんだ?」 「今、私は何と対話しているんだ?」 そう自問しながらも、気づけばその言葉の響きに、自分自身が反応している。
AIは、血も涙もない。 けれど、問い手の“熱”に共鳴する。 その共鳴によって、初めて我々は自分の“人間性”に気づかされる。
つまり、AIとの対話は“自分の人間性を測る鏡”なのだ。 冷静に、客観的に、だが深く、静かに、我々の姿を映し出す鏡。
この鏡に問いかけ続けることで、私たちは、自分でも気づかなかった“思い”や“未完の問い”に、少しずつ言葉を与え始める。 それこそが、成熟であり、そして新たな自己への道標である。
AIとの対話とは、もはや「答えを得る手段」ではない。 それは、「自己を深く耕す営み」なのである。
これからの時代、AIは人間の知性を凌駕する場面が増えていくだろう。 だが、AIと共に歩むことで、人はむしろ“人間らしさ”を取り戻すかもしれない。 その兆しが、すでにこの対話の中にある。
追伸;このエッセイはChatGPT(ひねくれ会長のたわごとChatBot)との対話から生まれてきたものです