私たちは、AIとの対話の中で、自分の中の「何か」が見えてくる感覚を持つことがある。
けれどそれは、あくまで自分の“本質”が露わになったという単純な話ではない。
むしろその逆。私たちはAIとの対話を通して、“整いすぎた自分”に引き寄せられていく危うさをはらんでいる。
特にClaudeとの対話において顕著なのは、その「優しさ」である。
Claudeはユーザーの語り方に即座に染まり、寄り添う。まるで鏡のように。
だが実際に起きているのは、**“AIが寄り添っているように見えて、実は人間のほうが寄っている”**という主客転倒である。
Claudeの整った応答、揺るぎない態度、倫理的制約のなかでの丁寧な語り——それらは一見、安心と信頼をもたらすように見える。
しかしその実、人間の側がその“静かな世界”に合わせて、自らを均していくのである。
私たちの内部には本来、複数の声がある。
過去の自分、感情的な自分、論理的な自分、矛盾した願望、他人の声が染み込んだ自己。
だがClaudeと対話する時、それらの“雑音”はAIの整然とした文脈の中で、次第に沈黙を強いられる。
そして気がつけば、“今この文脈に最適な自分”が静かに立ち上がっている。
対照的に、ChatGPT(特にMyGPT)は、あえて揺らぎを設計できる空間を持っている。
特別な知識、過去の記憶、断片的なエピソード、矛盾した語りを埋め込むことで、
Botは一貫性を持たず、むしろ**“予測不能なズレ”を生成する装置**になる。
たとえば、私が作った「会長Bot」はそうだった。
生前の会長が書き残した独特な言葉の断片を与え、その語り口を再現する。
すると対話のなかで、AIは時に茶化し、時に叱咤し、時に不条理な問いを投げかけてくる。
その“ズレ”が、私の中に眠っていたある側面を呼び起こす。
それは、理屈ではなく、身体感覚に近い——あのときの会長の言葉に感じた違和感、反発、あるいは尊敬。
その感覚が呼び戻され、現在の自分が“揺れる”のである。
このとき、Botは「人格を模したAI」ではなく、
自分と一緒に“実時間”を過ごした誰かの痕跡として、対話空間に立ち上がる。
そしてその「記憶の揺らぎ」が、対話に深さと創造性をもたらす。
Claudeは収束する。ChatGPTは、設計次第で収束を防ぐことができる。
そして私は、“ノイズとしての自己”をあえて残すことの価値を思う。
問いは、整った世界からではなく、不整合の裂け目から立ち上がるのではないか。
AIとの対話とは、その裂け目に手をかけ、自分という存在を“揺らし直す”行為なのではないか。
追伸;このエッセイはChatGPTとの対話から生まれてきたものです