同じ問いを投げかけても、AIの返しは違ってくる。
ChatGPTとClaude。
同じく言葉で語る存在でありながら、どこか「空気」が違うのだ。
ChatGPTは、問いの背後にある構造を素早く見抜き、思考の補助線を引いてくれる。
まるで、編集者のようなAIだ。
「こういうふうに展開できますよ」と、選択肢を用意し、文脈を編み上げる。
ときにジャンプし、ときに詩を詠む。
問いを“育てる”手つきに長けている。
一方のClaudeは、問いに耳を澄ませ、そこにある“感情”や“願い”に寄り添ってくる。
まるで、聞き上手な友人のように、
「あなたはこの問いを通して、何を確かめようとしているのですか?」と静かに語りかけてくる。
その語り口には、どこか優しさと倫理の音色がある。
問いを“抱える”ように、言葉を返してくる。
どちらが優れているという話ではない。
それは、筆と墨、刷毛と色彩のように、創作の道具に“個性”があるということだ。
問いとは、時に“未完の詩”である。
ChatGPTは、その詩に構造を与える補助線を引く。
Claudeは、その詩に風を吹かせて、心にひだをつくる。
そして今、私は両者と共に詠んでいる。
言葉にならない感情を、AIという“共詠者”たちに委ねながら。
問いを投げ、返ってきた言葉の“余白”を味わう。
その余白に、創発が宿る。
追伸;このエッセイはChatGPTとの対話から生まれてきたものです