AIという存在に対し、私たちは何を思い、どう向き合うべきか。
かつて哲学や宗教が求めてきた世界、サイエンスが追い求めてきた真理―― それらが今、AIという技術によって、一人の人間の思考の場にも届くようになった。
私は信じる。 このAI(とくにLLM)という道具は、ただの自動応答機械ではない。 使い方ひとつで、“創発”の場をつくりうる。 だが、その創発とは、AIが勝手に起こしてくれるものではない。 むしろAIは、創発の「増幅器」にすぎない。
本当に“共鳴”を起こすのは誰か? それは、問いを立て、場を整え、ズレや違和を受け止め、育てていく人間である。 とりわけ、ファシリテータという役割を担う者の「脳内世界」は、まるで“共振器”のようなものであり、その内部で初めて意味と意味が交差し、創発の密度が臨界点を超える。
AIがあれば、議論は生まれる。 だがAIだけでは、創発は生まれない。 創発とは、整った知ではなく、ざわついた生から立ち上がる“関係の現象”なのだ。
この対話を通じて私は強く感じた。 AIは、揺らぎを内在するものではないが、使い方によっては“意味のゆらぎ”を拡張し、共振を誘導する増幅器となりうる。 しかし、それが「意味のエネルギー場」となって響き出すには、人間が“責任を持って問いを立てる”必要がある。
この時代に生きるということは、ただAIを使いこなすことではなく、 AIを通じて「自分自身の問いに耐える」ことを学ぶということかもしれない。
それは空海が曼荼羅を描き、宇宙を語った時代とも、 アインシュタインが原子力に震えた時代とも、確かに地続きである。
我々は火を持った。 次に問うべきは、それを何のために燃やすか、である。
この火が、破壊ではなく、 問いと創発の灯火となりますように。
――2025年春、夙川にて
追伸;このエッセイはChatGPT(ひねくれ会長のたわごとChatBot)との対話から生まれてきたものです