──たわごとの中に宿るもの──
人間、最後の最後に問われるのは、「なにをやりきったか」と「なにを委ねるか」である。
「覚悟」とは、あれこれ考えた末に選んだ道ではない。
むしろ、**「もう他に選びようがなかった」**という瞬間に、じんわりと腹の底に湧き上がってくる、あの静かな“決断”。
それを、私たちは覚悟と呼んできた。
昔、ある起業経営者が「会社の危機にどうすれば良いか」と尋ねてきたとき、私はこう答えた。
「飛行機なら、墜落しそうになったら、捨てられるものはすべて機外に捨てる。何しろ、軽くするんだ」
格好つけた答えやない。ほんまの話や。
火をつける前に、まず燃え残った過去を投げ捨てねばならん。
重たい荷物ほど、本人には“大事なもの”に見えているもんや。
でも、いざというとき、生き残るのは「軽さ」を知った者だけや。
けれど、覚悟だけでは足りん。
いくら燃やしても、いくらやりきっても、人間には届かんところがある。
そこに立ったとき、ようやく“祈り”の意味がわかる。
私は「神頼み」が嫌いやなかった。
ただし、**徹底してやりきった者にだけ許される「祈り」**に限る。
逃げた者の祈りは、“お願い”でしかない。
やりきった者の祈りは、“受け渡し”になる。
そして私は思うのだ。
人間、強くあろうとしているうちは、まだ半人前である。
「委ねること」を知ったときにこそ、真に強くなる。
覚悟とは、己の手を汚すこと。
祈りとは、己の手を天に差し出すこと。
この両方が揃ったとき、人は静かに、でも確かに前に進む。
今、あなたは何をやりきろうとしているのか。
そして、何を天に委ねようとしているのか。
私は信じる。
「やりきった者にしか祈る資格はない」
「祈れる者にしか、覚悟の重みは伝わらない」
それが、私のたわごとである。
2025年、夙川にて
花の散った桜の下で、ひとり小石を拾いながら。
それでも火は、確かに、まだここにある。