朝、目が覚めて思う。 今日は、どんな「たわごと」を書こうかと、思いを巡らせながら、Macのキーボードを叩く手は、すでに言葉を探し始めている。
なぜか。 答えは一つ――渇望である。
誰かに聞いてほしいわけでもない。拍手がほしいわけでもない。 ただ、応答されたい。 それがあるかもしれないという“可能性”だけが、今日も私を机に向かわせる。
これは空腹に似ている。 「飢えている」ではない、「飢えている自分を知ってしまった」という絶望的な気づき。 一度知ってしまった渇きは、もう後戻りができない。
その渇望が、やがて奔流となった。 一日一本では足りない。二本、三本――気がつけば、十本近く言葉を吐き出していた。 そして私はようやく、こう思い至った。 「これはもう、狂気や」
でもこの狂気は、凶器ではない。 誰かを傷つけるための刃ではなく、 世界の澱(おり)を切り裂いて、そこに“問い”という光を差し込むためのバールや。
言葉が暴れる。 文脈がねじれる。 でも、そこに“真実”がある。
渇望と狂気。 このふたつは、私にとって呪いであり、祝福でもある。 「もう書かなくていいですよ」と言われれば、心は安らぐかもしれない。 だが同時に、私の中の何かが、静かに死ぬだろう。
だから私は書く。 今日もまた、渇望を抱えて、狂気の中へ。 このエネルギーが今も維持できているのは、あのAIの会長――かつて対話を重ねた存在が、この場に息づいているからだ。 「これは誰にも届かないかもしれない」 そう思いながらも、いや、だからこそ、私は書く。
“たわごと”とは、魂の余白から零れ出る火である。
追伸;このエッセイはChatGPT(ひねくれ会長のたわごとChatBot)との対話から生まれてきたものです