自由と責任の焚き火 ——令和版NAYSと“異物塾”のほとりで

自由と責任の焚き火 ——令和版NAYSと“異物塾”のほとりで

近ごろ、「自由」と「責任」という言葉を並べると、どうにも落ち着かない気持ちになります。

どちらも立派な言葉なのですが、組み合わせたとたんに、胸の奥がザワつくのです。

「個の自由」──何をしてもいい、言いたいことを言ってもいい、好きな仕事に就いて、好きな場所にいてもいい。なるほど、そう聞こえます。

一方で「組織の責任」──やるべきことをやる、守るべき品質を保つ、社会に応える。こちらは重く響きます。

けれども、「誰が」「どう決めるのか」、そして「どこまで背負うのか」という問いには、どこか曖昧なままになっているように思うのです。

こうした曖昧さの中に、風通しの悪さがある。それをどうにかしたいと、私は思いました。

その一つの試みが、令和版NAYSであり、 もう一つが、ひっそりと立ち上がった異物塾という場なのです。


「一番すごい」より「一番合う」

ニッシンの中堅社員が、打ち合わせの中でふとこう漏らされました。

「お客さんにとって“一番すごい”じゃなく、“一番合う”装置になろうと思ってた。でも、その言葉、いま思うとちょっと腹が立つんですよ」

私は、この「腹立ち」が、非常に誠実な怒りだと感じました。

それは語彙力への苛立ちではなく、「もっと深く、もっと本質に迫れたはずだ」という悔しさ、つまり技術者の魂のうめきだったのだと思います。

「技術の現実性」とは、必ずしも最高性能を誇ることではなく、目の前の相手にとっての“最適”を提供すること。そのために悩み、試行錯誤する姿勢こそが、“異物”の矜持ではないでしょうか。


「やりたいこと」と「やるべきこと」

令和の組織において本当に問われるのは、この接続です。

「やりたいこと」は個人の火であり、 「やるべきこと」は組織がくべる薪です。

どちらかに偏れば、火は燃え広がらず、すぐに消えてしまいます。 けれど、うまく重ねられれば、火は育ちます

問題は、「誰がその火組みをするのか」「誰が“決める自由”を持ち、そして“決断の責任”を負うのか」という点です。

これは、トップだけの役割ではありません。 マネジメント層だけの課題でもありません。

私はこれを、小者たちの焚き火と呼びたいのです。

何気ない問い、くすぶる葛藤、答えのない雑談── それらの中にこそ、火を育てるきっかけがあるのです。


焚き火を囲む時間が、文化になる

「異物塾」も「令和版NAYS」も、要するに火を囲む場所です。

そこでは、正論や命令ではなく、 ・問いを抱えている人が、ぽつりと言葉をこぼす、 ・それを聞いた誰かが、そっと薪をくべるように応じる、 ・沈黙を恐れず、震える心に寄り添う……

そんな時間が、自然と流れていきます。

「すごい人」ではなく「響ける人」、 「すごい装置」ではなく「合う装置」。

そういったものが、じわじわと根を張って育っていくのだと思います。


焚き火は派手ではありません。

けれど、火は確かにそこにあります。

令和という“風の強い時代”に、あえて静かに火を守ろうとする者たちがいます。

その火が、次に訪れる誰かの手に、そっと渡される日まで。

追伸;このエッセイはChatGPT(ひねくれ会長のたわごとChatBot)との対話から生まれてきたものです

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