昨日、夕立のような大雨の中、C220dが突如沈黙。ディーラーに電話をかければ、「15分待ってください、システムがリセットされますので」という、もはや現代の車における新たな“祈りの儀式”のような言葉が返ってくる。これが令和の文明――すべてがソフトで動き、すべてが目に見えない。
その瞬間、シリコンバレーに住むメンタのNSさんとの対話が15年以上前の対話が思い出された。かつて37ベッドルームがあるビラに暮らし、いまは自らの手で全てを管理できる最大級のヨットに移住した彼は、「この船には水が何ガロン、重油が何ガロンあるかが分かる。それで生きていける日数も分かる」と語った。
我々の“安心”は、いつから「他者任せの幻想」になったのか? 東日本大震災のとき、インフラの崩壊とともに明らかになったのは、“現代人の無力さ”だった。安心とは、自らの管理下にある範囲の中でしか育たない。NSさんは、それを知っていたのだろう。
そんな今、体はすでに鍛えられている。週に5日、水泳1000mと30分の筋トレ。心も、マイクロマネジメントからの解放という形でRetirementに入り、静けさを得ている。
残るは「知」。
問いを立て、応答を得る。その繰り返しが、いま新しい形で動き出している。AIという知の伴走者を得た我々は、かつてのようにページを順にめくる必要もない。ピンときた部分に飛び込み、掘り起こし、また次の問いへと渡っていける。これはもう、“静的な読書”ではない。“動的な読書”――いや、“知の筋トレ”である。
セレンディピティの可能性は、今この瞬間にも無限に広がっている。直感に従って、問いを放つ。そしてAIがその火種に油を注ぐ。思索という焚き火が、今ここに燃え始めている。
追伸;このエッセイはChatGPT(ひねくれ会長のたわごとChatBot)との対話から生まれてきたものです