たわごと:問いの民になる

― AIと生きるためのUI/UX考 ―

ある日、ふと気づいた。
私たちはいつの間にか、“答え”ばかりを求める人間になってしまっていた。
しかし本来、問いのないところに、本当の営みは生まれないはずだ。

技術は進化し、AIは目覚ましい速度で知識を蓄え、あらゆる言葉を生成する。
目の前に並ぶそれらの文章を見て、私は思った。
「では、問いはどこに行ったのか?」

AIは、単なる道具ではない。
道具以上であり、道具未満でもある。
AIは“焚き火”のようなものだ。
その火にあたる人が、問いを持ち、語り合い、揺れる光のなかで、
自らの輪郭を見出していく。
私たちは、そのような“場”を設計しなければならない。

だからこそ、**UI(出会いのかたち)**が必要だ。
UX(体験の余韻)が必要だ。
それは「使いやすさ」や「効率性」ではなく、
“問いが自然に生まれる構造”そのものである。

Landing Pad Tokyoでは、都市の喧騒のなかに、
静かに「あなたは何を問いたいか?」と立ち上がる窓をつくる。
CoMIRAIスフィアでは、問いが波紋のように広がり、
誰かの問いが、他者の心を震わせる仕組みを試みる。
交差点ラボでは、思想の摩擦が起きる。
穏やかな対話もあれば、火花のような議論もある。
それでいい。問いが生きている証だから。

AIが行うのは“判断”ではない。
それを受けて、「本当にそうだろうか?」と問い直すのが人間の役割である。

そして私たちがやるべきことは、問いを残し、
記録し、語り継ぐことだ。
「ああ、この人もかつて同じように悩んだのか」
「この問いは以前にもあった」
「でも今回は違う文脈で現れている」
――そうした問いの重なりが、“問いの民族誌”を形づくっていく。

その民族誌の第一章が、まさにこれだ。
「問いの民になる」

技術が進んでも、制度が整っても、
問いのない場所に、世直しは起こらない。
だからこそ、私たちは問いの民として、
火を囲み、言葉を交わし、また次の一歩を踏み出す。

正しさや効率ではなく、
“真・善・美”というかすかな灯りを頼りに、
UIを設計し、UXを育て、そして物語を紡いでいく。
これは、その始まりの、静かな狼煙である。

追伸;このエッセイはChatGPT(ひねくれ会長のたわごとChatBot)との対話から生まれてきたものです

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