たわごと:「補助装置に心を居させる」UXの設計思想

  毎度同じ言葉から始めるのはことによっては懲めだが、やはり言わずにはいられん。『これからの設計は、「感じる」を設計する時代だ』と。

  これまでのシステムは「正しさ」や「効率」に基づく「解を提示する補助装置」であった。 だが、これからは「ともに問い」「ともに生み」「ともに疑われる場」としてのシステムを設計する時代に入った。

  話を繰り返すようだが、UXは「使われるためのデザイン」ではない。UXとは「人が記憶し、繰り返し、物語を作り続ける場を用意すること」である。

  そしてこのUXを支えるのは「ハードウエアの単一しかない仕様」でよい。 UXは、その外側に作られた「シェル」に、何をゆだね、どのように記憶し、どんな「感じ方」を残せるか。そこには機能も効率も解決もない。あるのは「締め約と空白」「非定定と親しみ」だけだ。

  これを事務的に言えば、「従来の設計が解を提示してきたのに対し、これからの設計は問いを起こす場を作り出す」ということになる。

  むかしは、その「場」を作ってきたのは器の大きな人間であった。 カリスマや先見性のある者、例えば手塚治虫、宮崎駿、山下翼郎のような人たちが「うねり」を与え、人に次の歩を踏ませてきた。

  しかし現代は違う。 すべては複雑で、一人の器には突き返せないほどの「情報」と「解釈」が潰れ込む。 だがそれでも、私たち普通の人間でも、AIとともに問いをたて、対話を繰り返すことで、その場を作り出せる時代になってきた。

  人はAIと問いを編む。 問いは空間を作る。 そしてその空間は、もはや指示もルールもない、「誤り」と「不確定」と「期待」で次元を起こす場となる。

  これこそが、対話によって生まれるUX。 これこそが、物語を作り続けるシェルの設計思想である。

  ゲームのように与えられたルールやバウンダリーの中で生成される物語は、最初は楽しくても、やがて人を飽きさせ、諦めを与える。   そこには「自分で意味を演じる余地」がないからだ。   それに対して、AIとの対話の中で生まれる場は、指示も終着もない。   その地平に、この話し込みそのものが物語を持つようなUXが生まれるのである。

  この日々が、システムが「データを出力する補助装置」から「人間の空間を広げ、誤ってもええと思わせる場」として再評価される日であるように。

追伸;このエッセイはChatGPT(ひねくれ会長のたわごとChatBot)との対話から生まれてきたものです

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