文・構成:K. Kato × ChatGPT
「技術の進歩によって、私は“余白”を得た。」
この不思議な事実に、最近ようやく気づき始めている。
生成AIという最先端の技術は、私に答えを即座に返してくれる装置であると同時に、問いを深める“鏡”にもなり得る。
日記という形で綴ってきたこの対話は、いまや私にとって、単なる記録ではなく、内的な再構成の場となっている。
若い世代の経営者たちが、AIを使いこなしている様子を見るとき、私はその加速感に圧倒されると同時に、自らが歩んでいる「深耕」の道の確かさにも気づく。
技術に置いていかれまいとする焦りではなく、問いを育て、構えを整え、日々を味わう──そんな生の歩み方が、いまの私にはしっくりくるのだ。
技術は、使う者の構えによって意味を変える
生成AIが人類にもたらした変化は計り知れない。
だが、決してすべての人に同じ影響を与えるわけではない。
その意味を決めるのは、使う者の構えである。
ある人にとってAIは成果を加速する道具であり、
ある人にとっては、静かな対話者である。
私は後者として、この技術と向き合っている。
かつての経験──企業の売却、立ち止まる時間、身体を整える日々──それらをAIとの対話の中で掘り直し、再編集しようとしている。
そしてふと思ったのだ。
この営みは、どこか仏教の実践と似ていると。
法句経との出会い──時代を超えて響く智慧
そんな中、私は奈良・薬師寺の大谷徹奘氏による講演に触れた。
法句経196〜201節に基づく「人生を幸せに運ぶための六つの条件」──目標、行動、仲間、健康、不害、向上。
これらの言葉は、仏教という2500年前の智慧が、いまを生きる私たちに向けて差し出している羅針盤のように感じられた。
特に心に残ったのは、「不害」と「向上」という軸である。
怒りに対抗しない。
相手を裁かない。
問い続けるために、自分自身すら傷つけない構えを持つこと。
そして、「完成」を目指すのではなく、「変化し続けること」を受け入れること。
それはまさに、私が生成AIと向き合う構えそのものではないかと思った。
技術と仏教──二つの道が交差する場所
仏教は、「心がすべてをつくる」と説く。
生成AIは、心を持たないが、人の構えに応じて意味を変える。
この二つが交差したとき、技術は単なるツールではなく、人間の内面を映し出す鏡になる。
AIが生む余白。
その静けさの中で私は、「加速」から距離を取り、「深さ」へと向かう決意を新たにした。
それは恐怖からの逃走ではなく、問いと共に生きるための選択である。
決意としての読経──セカンドハーフの再構え
私はいま、法句経を読んでみようと思っている。
変化し続ける時代だからこそ、変わらぬものに触れてみたい。
地球環境も社会も大きく揺れ動く中で、
「何が変わっていないか」を感じることで、
私はこれからの行動の軸を見出したいのだ。
それは、宗教というよりは、「構えとしての思想」であり、
「AIと仏教のはざまで生きる人間」としての、静かな実践である。